三々五々

日常の中で考えたこととか、自分の生活の中で体験して得たこととかを発信していきたいと思います。

既婚者と独身者と受験生

わたしは一年くらい前に結婚したんだけど、結婚した途端に独身の友達と話が合わなくなってしまった。

 

子どもができたら子どもの話ばかりになって…と言うのは聞いたことがあるけれど、それどころか結婚した瞬間合わなくなってしまった。

 

これが思ったより、しんどい。

 

思ってみれば、結婚すると、ライフスタイルが変化する。ライフスタイルが変わると、話したい内容も変化する。あたりまえのことだ。

 

独身だったときは、女二人で弾丸でどこどこに旅行に行こうだとか、オールでカラオケに行こうだとか、彼氏からプレゼントに何をもらっただ、こういうデートをしてあんなことを言われたからこんなことを言い返しただの、そういう話題が主だった。

それが今や、もっぱら大量にもらってしまったきゅうりをどうやって消費するかであったり、狭いスペースに洗濯物をうまく干す方法だとか、そうめんの茹で時間だのトマトのむき方だのと、そういうことになってしまうのだった。

 

多くの独身者にとって、多分きゅうりはどうでもいい。

多くの既婚者にとって、弾丸女二人旅行はいろんな意味で難しい。

 

だがしかし、こんなにも合わないものか?と考えたとき、これが何かに似ていると思った。

 

中学校やら高校やらの受験期。

 

周りは殺気立って勉強しているなか、自分は推薦で進学先が決まっている。

周りが進学先の話題でもちきりななか、自分は就職が決まっている。

 

似ている。

 

どちらが良いとか悪いとか、進んでるとか遅れてるとかじゃない。同じ一本のベクトルの端と端にいるとかじゃない。

 

立っているベクトルそのものが違うし、そもそもそのベクトルもそれぞれ違う方向を向いている。

 

同じ既婚者同士であったり、同じ受験生同士であったりすることは、たまたまそのベクトルが似たような方向を見ていたり、偶然にもそこで交わっているだけのこと。

つまり、違うもの同士ならなおさら、話が合わなくて当然なのだ。

そして話が合わないことは誰のせいでもない。

そのように考えることにした。

 

しんどいものはしんどい。が、そう感じるならそれなりの付き合いをすればいいのだと思う。

別にそうすることによって、友達が友達じゃなくなるわけじゃない。長い人生、そのうちベクトルが同じ方向を向くかもしれないし、交わるかもしれない。

 

と、ぼんやり考えた夜だった。

 

ところで、ベクトルって言葉の使い方、あってるのかしら。

 

 

それでは

ポケモンと人生って実はめっちゃ似てない?

この前の記事を書いていて思ったことだけど、勉強をゲームに例えたらわかりやすいんじゃないかなと思ったので、私が子どものころ最も親しんだゲームである『ポケモン』に例えてみる。

ポケモン』というゲームの目的は色々あるけれど、その中でもわかりやすいもののひとつとして、その地方で最も優れたポケモントレーナーである「四天王」を倒す、という目的がある。

だけど最初から四天王を倒すなんて、当然ながらできない。そもそも四天王って誰なのかわからないし、どこにいるのかも、どんなポケモンを使ってくるかもわからない。もちろん、どれくらい強いのかもわからない。

そもそも、ゲームを始めた段階ではポケモンというものがどんな生き物なのかも知らないし、何種類くらいいるのかも、どうやって戦うのかもわからない。

だから、主人公は最初は博士からポケモンをもらって、戦う方法や捕まえる方法を教えてもらう。そして各地へ冒険の旅に出て、もらったポケモンを野生のポケモンと戦わせたり、新しいポケモンを捕まえたりする。旅をする中で色んな野生ポケモンに出会って、どんなところにどんなタイプのポケモンがいて、それぞれのポケモンがどんな戦い方をしてくるのかを知っていく。
これが勉強であり、毎日の宿題みたいなもの。

そして旅を続けていくと、色んな町にたどり着く。それぞれの町には『ポケモンジム』があって、主人公はその『ジムリーダー』に挑戦することになる。ジムリーダーを倒すには強くなる必要があるし、勝てば『ジムバッチ』をもらえて、次の町のジムリーダーに挑戦する資格を得ることができる。
これが言うなれば定期テスト

そして各地のジムリーダーを8人倒すと、やっと四天王に挑戦する資格を得ることができる。だけど四天王のいるポケモンリーグへたどり着くためには、強い野生ポケモンがうじゃうじゃいるチャンピオンロードを進まなきゃならない。
これが受験勉強みたいなもんかな。

そして晴れてリーグにたどり着いて四天王を倒せば、おめでとう!目標達成!
これが「卒業」とか、「成人」みたいなものかな。

そこからは、決められた目的とかは何もない。集めそこねたポケモンを集めるもよし、友だちと対戦するもよし。何をやってもいいし、何もやらなくてもいい。
これが大人の世界。

ーー

野生のポケモンをたくさんを倒すという経験を積むと、どのタイプにはどのタイプが有効なのかわかるようになる。
例えばでんきタイプにはじめんタイプの技が有効ということを学んでいれば、野生のピカチュウが出てきたときにじめんタイプの業を出す事ができる。

また更に経験を積むと、知らないポケモンが出てきたとき、攻撃してみることでそのポケモンの弱点がわかるようになる。

例えばみずタイプの業を出してみて効果がいまいち見られなかったとき、みずタイプに耐性があるのがくさタイプであることを知っていれば、相手の弱点がほのおタイプであることがわかるので、じゃあリザードンに交代!ってこともできるわけです。
そして、ほのおタイプのポケモンであっても一人ひとり、使うポケモンは違います。
人によってはブーバーだったりロコンだったりするでしょう。
でもブーバーでもロコンでもリザードンでも、野生で出会って捕まえておかなければ、戦闘に出すことはできない。
だから野生ポケモンと戦い、捕まえる(勉強して、学ぶ)ことが必要なんです。

 

勉強は経験値稼ぎ、レベル上げに相当する。
微分積分は使わないから勉強する意味がない」というのは、「チャンピオンのワタルに勝つために野生のポッポを倒す意味がない」と言ってるのと似ている。

もちろん、カイリューを倒した経験があるほうが、チャンピオンのカイリューを倒すには有利なのかもしれない。でも、カイリューに勝つためにカイリューだけ倒す練習をするのは違うし、そもそも普通に冒険しててカイリューというポケモンと出会う機会なんてそうそうない。カイリューが出てきたときだけ戦おうなんて思っていたら、チャンピオンに挑むための経験値なりレベルなりに到達するまでにすごく時間がかかるし、いざカイリューが出てきても1匹も倒せないかもしれないよね。

1匹のカイリューと戦うより100匹のコラッタと戦うほうが意味があるのです。勉強も同じ。

社会に出て即使えることだけを学ぶっていうのは実はとても難しい。

 

どうかな?この説明で勉強しなきゃいけない意味ってわかってもらえるだろうか?

勉強よりポケモンやりたくなりそうだけど。

 

それでは

すぐインプットが足りなくなる

私は絵を描いたり、WEBの制作などで頭の中にあるものをアウトプットすることがよくありますが、インプットがすぐなくなるなぁと感じます。

インプットが足りなくなった状態でアウトプットすると、いちおう形にはなっているんだけど芯が入ってない、ハリボテだけの「空砲」みたいな作品ができあがります。もちろん、そうやって出来た作品はいい作品とは言えないし、その作品の見どころとか込めた思いなんかも語ることができません。何もこもってないから。

大体、インプットが足りているときの制作は、「やろう!」って気負わなくても勝手に手が動いてくれます。よく知っている人について、「こういうとき、あの人ならこうするだろうな」って簡単に想像がつくみたいに、「ここをこういうふうに作ったら、こっちはこうするとしっくりくるだろうな」っていうのがあんまり意識しなくてもわかったりします。

とりあえず途中までやってみたけど、いちいちう〜んと考えないと進んでいかない、っていうときは大抵、インプットが弾切れのとき。全然知らない人について「あの人って休日何してるのかなぁ。買い物?映画?友だちと遊ぶ?どれも想像つかないなぁ…」みたいな感じ。

「見た目がいかついのに、可愛いものが大好き」っていう人を知っている(インプットしてある)と、次にいかつい人に出会ったときに「この人はもしかしたらネコとかウサギとか好きかもしれないな」って思うことができるけど、そういう人に会ったことがない(インプットがない)と「う〜んこの人は多分シルバーアクセサリーとかドクロとか好きなんだろうな!」って思い込んじゃって、作品がワンパターンになったり誰でも思いつくような作品になっちゃったりする。

あと、インプットを増やすには、色んなものを見たり色んな体験をしたりしてアイデアや情報を溜めるという方法以外に、すでに持っているアイデアや情報同士を組み合わせて新しいアイデアを生み出すという方法もある。多分、インプットがすぐになくなるのは、情報を溜める→使う→なくなる→また溜める→使う…の繰り返しだからだ。少しのインプットが長持ちする人は、溜める→使う→生み出す→使う→生み出す→使う…のサイクルができるんだと思う。インプットが少なくなっても新たに生み出せるから、溜めにいく回数が少なくて済むし、生み出してる間のインプットも蓄えにできるんだろう。

これって料理に少し似ている。料理は慣れないとレシピどおりの食材が全部揃っていないと作れなかったり、余った食材をどう使っていいかわからなくて結局だめにしたりする。慣れてくると、ありものの食材でできるものを考えたり、足りないものを既に持っている何かで代用できないか考えて工夫することができるようになる。

 私がインプットがすぐなくなるのは、多分料理初心者みたいに、既に持っているアイデアや情報の何割かを無駄にしていたり、押入れにしまい込んじゃったりしてるからなんだろうな。しかも一回しまいこんじゃうとそうそう出せないので、結局新しいのを探しにいかなきゃならない。

 

…んで。

何か新しいことを始めたばかりの時、なんでもいちいちう〜んと考えないと進めていけない時は、まだインプットが一度も100%を越えてない(上限はないと思うのであえてこういう言い方をします)状態なのかなと思います。だからそういう場合は早くインプット100%を超えるように努力すると、アウトプットしやすくなるのかな?と思います。

別に新しいことを始めるときに限らずとも、何か作ろうとしていてなにも思いつかないとき、あちきの発想力は腐っている、ダメだ〜とか思わずに、お腹すいた〜ごはんごはんって感じに落ち込むことなくインプットしていきたいなと思いました。

 

いまいち締まらないけど疲れたのでおわります。

 

それでは

 

勉強する意味ってなんなのか、について

先日、通勤電車に乗っていたら、すぐ近くに乗っていた高校生がこんな話をしていた。

 

「私は勉強は全然必要じゃないと思うけれど、ある程度勉強しておかないと一般常識とかが身につかないから、やっぱりしなきゃいけないと思ったわけよ」

 

ここまでは、うんうん、という感じ。

 

「だけど、○○高校(その子の通う高校名:地元では比較的上位の進学校)に入れたから、一般常識が身につくくらいの勉強は十分したと思うんだよねー」

 

あちゃー。

わかるけどね。今思えばばかばかしいけれど、私も自分が高校生のときはそんなことを思っていたよ。

 

「なんで勉強しなきゃいけないのか」ってことを説明するのって、なかなか難しい。
特に高校生以下の学生に説明するのは難しい、と思う。大人になってからの勉強は、勉強する内容そのものに意味があるけれど、高校生までの勉強はそれだけじゃないから。

 

私も勉強嫌いな子どもだったけれど、やっぱり勉強は大事だと思うし、なぜ勉強をしなければならないか?に対する私なりの答えは一応用意している。


それは「高校生までの勉強は、勉強する内容そのものだけじゃなく「勉強するという行為」自体が大切だから。」

 

<理由その1>

高校生までの勉強は、基本的に回答が容易された問題を解くことになるけれど、それは「成功体験」の積み重ね。

社会人になると、回答が容易された問題なんかはまれで、大抵は自分が一番いいと思う答えを出し、正解だったのかどうかは自分で見極めなきゃいけない。「正解だ」と思ったとしても、それが本当に正解かどうかの答え合わせをすることもできない。

だから、「正解に近い回答を自分の力で導き出す」能力を身につけるための練習として、答え合わせができる環境で、あらかじめ「こういうときはこういう答えが正解」という成功体験を積み重ねておく必要がある。

例えるなら、逆上がりの練習をするのに横から手助けをしてもらって、逆上がりができたときのイメージを体験するのと同じね。


<理由その2>

「思考する」ことのトレーニングだから。

例えば高校で習う「微分積分」なんて、使わないじゃんって思うけれど、それは「微分積分」ができるようになることが目的というより、「微分積分」を解くときに自分の頭で考える工程を経ること、「微分積分」を解くときに使われる脳の部分を鍛えること、が目的。

「どうやったら答えを出すことができるかを考える」という行為そのものに意味があり、それによって「回答のない問題を解決する能力」を鍛えることができる。

これは…自動車教習と似ているのかな。自動車教習に通うのは、その道を車で通るときにどこでどれくらいハンドルをきる・どこでどれくらいの強さでブレーキを踏む…ってのを覚えるのが目的じゃなくて、こういう道を通りたいときはハンドルやブレーキやアクセルをどう駆使すればいいかってことを自分で考えることができるようトレーニングするのが目的。

 

……というのが私の考える「勉強する意味」なんだけれど、ちょっとむずかしいんだよね。これを子どもに説明して、わかってもらえるかどうかがちょっと怪しい。子どもに説明してわかってもらうにはどう言ったらいいんだろうか。

 

そもそも、自分の学生時代にも「大人になったら答えが出ない問題を解くんだぞ」ってさんざん言われたけど、子どもの頃って「答えが出ない問題を解く」という概念自体があんまり理解できてなかった気がする。すべての事象において正解の回答が存在すると信じていた。

それどころか勉強嫌いの私は「答えなんてもんがあるからその答えを出すために問題を解かなきゃいけない」と思っていた節があったから、「答えがないんなら答えを出す必要ないじゃん」と思っていた気がする。宿題をやらなかったら(問題を解かなかったら)、答え合わせのときにやってないことがばれて怒られるけど、答えがない=答え合わせをしない=やってなくてもばれない!、という具合に。幼い私の想像力なんてそんなものだった。

今思えばビックリするくらいあほだけれど、実際、子どもにとっては「問題」という言葉から連想するのは算数とか理科とかそういうやつばっかりで、大人にとっての「問題」とはイメージが剥離しすぎてるんじゃなかろうか。

とにかく。

私にとっては結果的に「答えが出ない問題を解けるようになるために勉強しろ」という理屈は納得のいくものではなかった。

 

まず、大人になったら「答えが出ない問題を解くスキル」以前に、「問題を自分で見つけるスキル」が求められるんだと思う。
だけど、「問題を自分で見つけれるようになるため」とだけ言ったら、幼い私のように「じゃあ問題なんか探さなければ答えだって出さなくていい」みたいになるから、「自分や自分の大事な人がすごく困っていて、どうしたらいいかわからないときに、どうすればそれを解決できるかを自分の頭で考えることができるようになる」くらいの言い方が落としどころかなー。

 

え?国語算数理科社会と「問題解決能力」なんて子どもの頭じゃ繋がらないだろうって?
う、うーん…そうか。

 

だったらもう早めに、「答えがない問題」の存在を教えておくほうがいいのかもしれない。
答えがない問題=難敵!と刷り込んで、すべてはその難敵を倒すための練習なのだと。

 

例えば小学校に入学した瞬間、「きみたちは本日から13年後(?)に姿かたちも弱点も不明なモンスターを毎日倒す生活になる!今日からいっぱい雑魚敵を出すから、じゃんじゃん倒して敵を倒すパターンを学べ!そうすればモンスターの弱点を見極め倒す方法を考える術を身につけることができるのだ!」とかって宣言する。

「えーそんなのやだー」ってなっちゃうかしら。

でも、「君たちは勇者なのだ!」とか言っておけば、「ドラゴンクエストみたい」って喜んだりするんじゃない?ドラクエやったことないけど。

 

…散々色々書いたのに、これが一番子どもにはわかりやすい気がしてきた。

 

それでは

新聞は読まないけど、新聞紙は欲しい

私はずっと実家暮らしなんですが、将来実家を出たら、多分、新聞は取らないと思うんですよね。


今は毎日読売オンラインで無料でニュース読めてるし、テレビ欄も地デジの番組表で見れるし。
チラシも、使ったことはないけど見れるアプリがあるみたいだし。
全部無料で見れるから、わざわざお金を払って、たまったら定期的に縛って捨てて…という手間は省きたいもんです。

 

だけどさ。「新聞"紙"」は結構便利なんだよね。

 

ちょっと埃が落ちそうなところを掃除したいときにサッと敷いたり、ジャガイモとかサツマイモをしまうときに包み紙に使ったり。雨や雪の日に外を歩いてビショビショになったブーツに新聞紙詰めておくとすぐ乾いて便利だし。

 

そういうときに1部や2部あると超便利なんだけど、新聞をとっていないと家に新聞紙が1枚もないわけですよね。で、新聞がないならそのへんのいらない紙で代用すりゃいーじゃんってことになっても、新聞をとらないとチラシとかもあんまりこないから、「そのへんのいらない紙」ってもの自体がほとんど出ない。


これ、意外と不便かもしれないなーと思う。「そのへんのいらない紙」って、確かにいらないんだけど、たまにあると助かるんだよね~。「そのへんの、いらないんだけど、たまにいる紙」なんだよね。実は。

 

「そのへんのいらない紙」がないと、なんでもいいから紙的なものがほしいときに「ほかにも色々使い道がある、すぐ捨てるにはもったいない紙」を使わなきゃいけなくなる。まっしろなコピー用紙とか、心苦しい。しかも、コピー用紙って小さい。新聞のあの大きさがいいのよね。

 

あと、牛乳パックもそう。
私はあんまり牛乳飲まないんだけど、牛乳パックの開いたやつは常備したいな~と思う。あれ本当に優秀ですよね。肉や魚を切ってすぐに捨てれるのほんと便利。肉をまな板で切って、そのあとすぐ切り忘れた野菜のこととか思い出すと、まな板を一回洗わなきゃいけないでしょ。も~!って感じになる。

スーパーの袋だって、いっぱいあるとそんなにいらないけど、ある程度はほしい。生ごみを捨てたいときなんかゴミ袋にできるじゃん。ね。


「新聞紙」「牛乳パック」「スーパーの袋」は、いっぱい溜まると面倒なんだけど、たまにないと困る。ペーパーレス化、マイバッグ化でエコロジー的には進歩してるけれども、その分お金を出して同等のものを購入というのは、家庭レベルのエコノミー的にはプラマイゼロな感じ。
いや、ゼロってほどではないのかな。けど、そんなもんなんでしょうかね。今、一人暮らしで新聞を取ってない人とかって、困ったりしないのかな。

「スーパーの袋」は普通にビニール袋を買うことで解決できるけど、「新聞紙」「牛乳パック」はそれ単品で売ってすらないから悩みどころ。

いや、新聞も牛乳も売ってるんだけど…

 

ねぇ?

 

 

それでは

美術館は「ふらっと」行こうぜ

最近気付いたんですが、美術館に行くと意外と体力を消耗します。

美術館というと、なんとなく作品をゆったり見て、意外とすぐに見終わっちゃって…みたいな感じで、そんなに「疲れるところ」って印象はないんじゃないかなーと思います。私も美術館や展示会は好きなんだけれど、ここ5年間くらいは行っていなくて、そんな印象は全然なかった。

最近久しぶりに足を運んでみて、美術館に行くとけっこう疲れるなーって思いました。

 

考えてみると、(展示のボリュームにもよりますが、)美術館へ行くとだいたい1〜1.5時間くらいは立ちっぱなしになる。しかも展示を見て、展示に添えられている説明文を読んだり、解説を聞いたりしながら。
しかもしかも、特に人気の画家の作品の展示会だとけっこう混んでたりする。そうすると、見たい絵を見るために人混みの隙間を探したり、近づけないときは遠くから目を凝らしたり、人があまりいないところを探して見に行ったり…ってこともよくあります。

もしかしたら、ちょっと混んでるデパートに買物しに行くくらいの体力の消耗はあるのかもしれないなと思う。

 

美術館にいると案外、頭を使うんですよね。
水族館や動物園で生き物を見るのとは違って、絵や芸術品ってこっちが見るつもりがないとなかなか何かを感じ取るのが難しかったりする。そういうものを見る時、自分は「見てるだけ」のつもりでも、頭の中では色んなことを考えてるんじゃないかなーって思います。
特に1人の画家の展示会だったりすると、その画家のライフイベントとそれぞれの時期に合わせた作品がガッツリめの解説付きで並んでたりして、画家の人生に思いを馳せずにいられなくなっちゃったり。絵や芸術品は描く人・創る人の心情なんかをダイレクトに反映するので、悲しい絵と嬉しい絵とを続けて見ると、こっちの感情も振り回されちゃったりする。こんな感じで、頭を使う要素がけっこうあります。

 

こんなこと書くと「美術館って疲れるところなんだー」って思われるかもしれませんが、私が言いたいのはそこじゃなくて、『美術館はフラっと立ち寄るくらいの感覚で行くのがちょうどいい』ってことです。「行くぞ!」って思って行くから疲れちゃう。デパートで言えば「欲しいもの見つけるぞ!」って思わずに「ちょっと立ち寄ってみて、欲しいものがあったら買おう」くらいの感覚がイイってこと。

1個1個きちんと見ようとすると、先に書いたように全ての作品から何かを得よう得ようとしてげっそり疲れちゃうんです。ささーと見て、これは!と思う作品をじっくり見る、くらいの感覚で行くと、そんなに疲れないし、それだけでいいものを得ることはできます。

 

私は美術館が好きなので、みんなもっと美術館に行けばいいのにって思います。
堅いイメージとか、ハードル高いとか、絵のことはわからないからとか言う人はいますが、そんなことないよ、わからなくても大丈夫なんだよって言いたい。私も絵が好きとかいっておきながら人名とか流派とかは全然わかんないからね。そこに居合わせた人とかが「これは誰々の~」とか喋ってても「へー強そうな名前だな」みたいな感じ。

見ても何も感じなければそれでいい。それに、自分が意識して解かろう、感じようとしなくても、自分の心の琴線に触れる作品って向こうから語り掛けてきたりします。デパートで言うと、欲しいものや好みのものには自然と目が行っちゃう感じね。私はよく衝動買いの言い訳で「この子と目が合っちゃったから」って言いますが、まさに「目が合う子を探しに行く」って感じ。無理してこっちを見てない子の正面に回ろうとしなくていいんです。

 

…ってことを、今回美術館で全部の作品を真剣に見て疲れてしまって、思いました。肩の力を抜きつつ、みんな気軽に美術館行こうぜ。

 

 ではでは

苦悩のオレンジ、狂気のブルー

今日は私の大好きなホラー小説について。

美容院へ行くのに、パーマの置き時間のあいだに何か読もうと本棚をあさっていたら、持っていることすらすっかり忘れていた宮部みゆきの『贈る物語 Terror』を発見。 

贈る物語 Terror みんな怖い話が大好き (光文社文庫)

贈る物語 Terror みんな怖い話が大好き (光文社文庫)

 

これは宮部みゆきの作品というわけではなくて、宮部みゆきセレクトの、英米の短編恐怖小説アンソロジーです。あたし自身は恐怖小説に疎いのであまり詳しくないんですが、有名な作品ばかりを集めたもののようです。傑作選というか。『猿の手』なんかはタイトルを聞いたことがありました。

んで。私はこの本を未だに最後まで読めていないんですが、その理由はこの本を開くたびに、最初のほうで紹介されているある短編を読んで、満足して本を閉じてしまうからです。その短編が、初めて読んだ時から大のお気に入りで、読んでも読んでも飽きないのです。

その大のお気に入りが、こちら。

苦悩のオレンジ、狂気のブルー (柏艪舎文芸シリーズ)

苦悩のオレンジ、狂気のブルー (柏艪舎文芸シリーズ)

 

 『贈る物語 Terror』の中では、『オレンジは苦悩、ブルーは狂気』の名前で紹介されているこのお話。3、40分くらいで読めてしまう短いお話なのですが、これがとんでもなく濃厚で、初めて読んだときの感動を今でも鮮やかに思い出すことができるくらい、大好きなホラー小説です。

色んな方に、予備知識なしでぜひ読んでほしい作品です。3回くらい鳥肌がたちますよ。

とある画家の作品に潜む謎。数多の批評家が研究しても明らかにされない真実。そして描かれた場所にまつわる噂、言い伝え。知りすぎた者を待っていた狂気の真実は――?

何しろ短いお話なので、これ以上説明したらそれでみなさんを満足させてしまいそうなので、できません。少し堅めの文体なので、最初の方はとっつきにくさを感じますが、途中からあまりの展開の加速度に引き込まれること間違い無し。とにかく読んでほしいなー!そこのあなた、本好きなお子さんのクリスマスプレゼントにいかがですか?

 

それではー