三々五々

日常の中で考えたこととか、自分の生活の中で体験して得たこととかを発信していきたいと思います。

悩み事があるって幸せ

最近の私は悩み事ばっかりです。
毎日似たようなことで常に悩んでいます。

「今、こーゆーことで悩んでて、こーゆー風にしようと思ってるんだけど〜」と、誰彼構わず悩みとかそれに対する考えとかを打ち明けたりしています。

すると大抵みんなに「いいじゃん〜、それで。」と言われ、「でも、絶対大変やんか?」と言うと、大抵「にもりさんなら大丈夫よ」と言われます。
ほんまかいな。

 

そして同じように昨日も話していたんだけど、その人は、ほかの人たちと同じように多数派の反応を返した後、「悩むことがあっていいな〜。私、悩みがないよ。」と言う。
これは初のケースだった。その人、とても若くして結婚・出産してる人なんだけど。悩み、ないんかい!すごいな。

 

だけど、思い返してみると、私にも悩みがない時代があった。悩みがないというより、何に悩めばいいかわからなかった。

その時代、私は時々無性に悲しくなったり、イライラして、どうしようもなくなることがあった。何に悩んでいるわけでもないのにそんな状態になるので、どうしていいかわからなかった。

もしかすると、悩みがないことについて悩んでいたのかもしれない。とにかく、なににも困っていないのに、すべてに困っているような、変な状態だった。

 

なににも困っていないということは、なにも解決しようとしなくていいということだ。そして、なにも解決しようとしなくていいということは、なにもがんばらなくていいということだ。

その時の私は、がんばっている人たちを見ることがつらかった。
がんばっている人たちを見ると、この人たちはこんなにがんばっているのに、私はどうして何もしなくていいのか?と、心苦しくなるからだった。

で、その心苦しい気持ちを解消するためになにかをがんばってみようと思って色々したけれど、所詮なにもがんばらなくていいので、なにもがんばれなかった。

 

今は、がんばらなきゃいけないことをたくさん見つけた。

がんばらなくても致命的ではないけれど、ちょっと悲しいことになるくらいのことはありそうなので、なんとかがんばれている。

 

今、悩み事は山ほどあるけれど、悩み事がなかったときよりもずっと息がしやすい。

確実に。

悩み事があるのは幸せだ。

 

 

それでは

狙い撃ちのGU、万人受けのUNIQLO

GUもUNIQLOもすごいけど、やっぱりGUがよりすごいよねって話。

 

あたしは薄給事務員なので、服とかにあんまりお金をかけ(られ)ません。しかも内勤だしゆる〜い会社なので、そんなにかっちりした服を着る必要がない。


少し前までは服やおしゃれ自体にあまり興味がなかったので、知り合いのお姉さんがやってるブティックでおまかせで選んでもらった1着1~2万円くらいの服を春と秋に1回ずつくらい、1着や2着買ってそれを2年も3年も着まわす、って感じだったんですが、最近はもっぱらワンシーズンに1回、1着1000~2000円の服を1万円分くらい買って、くたびれたらすぐさよなら、って感じです。


最近買った服は8割がジーユーで、残りの2割はたぶんその辺のショッピングモールのプライベートブランドものと、ブティックで買ったパーティ用のドレスくらい。
で、服の下に着る肌着みたいな外に出さない衣類は99%がユニクロ

 

ジーユーって、ほんとにすごいなと思う。
ユニクロも出てきたころはすごいなって思ったけど、ジーユーのほうがもっとすごい。

 

何がすごいかっていうと、ターゲットを絞って狙い撃ちしてるところ。

 

ジーユーの服はユニクロと比べると、最近のトレンドをしっかり追っているって気がする。
私はファッション誌とか見るようになったのがごく最近なので昔のことはわかりませんが、基本的にファッショントレンドって移り変わりがものすごく早いです。
大体こういう傾向、っていうのは2,3年くらい続くんだけれど、その間もマイナーチェンジ的な変化はずーっとしていく。
例えば2014年はガウチョパンツがトレンドだったけれど、2015年はそれが派生してスカーチョ(スカートに見えるガウチョ)が出てくる、みたいな。

 

だから、流行に沿って服を選んで行こうと思うと、1つの服を同じように着まわしていける期間って結構短い。せっかく買った服も、いい値段したのにすぐ着なくなっちゃう、なんてこともよくある。

それに、雑誌で見て、欲しい!って思ったような服って意外とそんなすぐにその辺の服屋さんとかでは見つからなかったりする(これは私の住んでるエリアが田舎だからかもしれない…) 。だけどジーユーに行けば「いまどきの服」がすぐに見つけられる。

ジーユーはまさに、「流行りの服を」「安く」「スグに」手に入れられるってことに重点を置いてて、それが見事に成功している。

 

ジーユーの服はぺらぺらだし縫製もダメダメよ、みたいな意見はよく見るし、実際私もジーユーの服の作りがしっかりしてるとは思わないけど、ジーユーのターゲットはあくまで「若者」。若者にとっては作りは二の次で、とにかく「流行り」と「値段」がネックになってるからこれで十分、ってとこなんですよね。いい布といい縫製に出すお金なんて若者は持ってないから。

 

んで!もう一個すごいのは「若者」がターゲットであるからして、広告系は全部アプリ(デジタル)。紙面広告は一切なしです。この潔い切り捨て方、ステータスの極振りっぷりは本当お見事って感じ。

 

いっぽうユニクロは、ジーユーと比べると、とにかく万人受けを狙ってる感じ。

出てきた頃はとにかく「シンプルな服が」「なんでも手に入る」って感じだったけれど、最近は特にウルトラライトダウンとかヒートテックみたいに「機能性」に重点を置いてる感じがする。

デザインはそれによってターゲットとなる世代に幅がありますが、機能性とシンプルさは世代に関係なく求められるものです。
品質も、ジーユーより価格が少し高め(というかジーユーが安すぎ)な分、ジーユーより上な感じ。


全てを切り捨てて若者狙いのジーユー、今も昔も変わらずみんなに愛されたいユニクロ

ジーユーがユニクロの売り上げを越すかも?ってあちこちで言われてますが、越すことはあってもユニクロがなくなるってことはなさそう。ふたつのブランド、ちゃんと棲み分けができてるからね。

 

 

それじゃ 

無駄と見せかけて貴重な経験

つい最近Web業界へ転職しようと思い立ち、半年ほど前からWebの勉強を始めました。子どもの頃からホームページを作ったりするのは好きで、実際作ったこともあったし、ブログもいくつもやったけれど、それを仕事にしようって思ったのは初めて。

だから、元々持ってる知識なんてちょっと端っこをかじっただけのHTML(15年前くらいのやつ)くらいだった。当時はメモ帳で作っていたから、ドリームウィーバー?なにそれ映画?って状態。

 なので勉強はほぼ予備知識ゼロからのスタートで、覚えることがいっぱいだな~と思っていたんですが、ふと、私の意外な経験が役に立ってることに気付いたんです。

 

私、2012年~2014年頃にかけてプライベートの時間をすべてほぼ引きこもりみたいな生活をして過ごしてたんですが、その間ずっと英語の二次創作ブログをやっていました。

なんで英語だったかっていうと、単純にその二次創作してた元の作品がアメリカの作品で、すべて英語だったから。日本語版も出てなくてファンもほとんど英語圏の人たちだったため、最初は日本語で始めたものの誰にも反応してもらえませんでした。(悲しかった)

で、一人で黙々とやってても寂しいので仕方なく英語で始めたんだけど、この作品がどうも日本以外の世界中では(?)かなり有名な作品だったらしくて、みるみるうちに閲覧数が増え、ありがたいことに結構なフォロワー数になってしまった。

そんなこんなで、毎日毎日英語でメッセージやらリクエストやらがひっきりなしに届くような状態になって、それを毎日毎日ちぎっては投げ、投げてはちぎっているうちに英語がかなり上達し、見事ペラペラになりました。

嘘です。なりませんでした。書けるようにはなったけれど、話せるようにはなりませんでした。ブログのファンの方からビデオチャットしよう!とか言われることもよくあって、「ごめん、喋れないんだよね」とかって断るんだけど、99.9%の確率で「今英語でやりとりしてんのに何言うてんねん、おかしなやっちゃな」みたいな反応をされました。

しかも、ほとんど誰とも話さずに引きこもってずっと英語を書いてばかりいたので、しばらく日本語の読み書きがめっちゃ下手くそになりました。そしてそれを元に戻すために日本語を書きまくっていたら、今度はせっかく上達した英語を忘れてしまいました。

 

でも、役に立った私の意外な経験というのがまさにこの引きこもりブログ時代の経験でした。この経験によって英語のタイピング速度が劇的に上がっていて、日本語を打つのと変わらない速度で英語をタイピングできるのに加え、簡単な英単語なら大体知っている+知らない単語も大体意味の予想がつくというスキルを自然と身に付けていました。

英語のタイピングにとても慣れていたことで、手打ちでコーディングするときはスクールの他のメンバーよりもかなりスピーディにできるし、HTMLやCSSに出てくるような英単語なら大体知っているので、習ったタグやコードの意味を特に覚えようとしなくても頭に入れることができています。

 

引きこもりみたいな生活をしていた頃のことは、私の中ではほぼ黒歴史扱いだったんですが、その経験がこんなに役立つ日が来るとは思いもしませんでした。

Dreamweaverを使ってればそんなにキーボードを叩いてコーディングすることも(今の私のレベルではまだそんなに)ないんですが、だからこそ、元々のタイピング慣れがなければ作業速度のことでもっと悩んでいたかもしれないし、色んなHTMLタグの意味をなかなか覚えることができなかったかもしれません。

 

Macのフォントが美しい理由は、スティーブ・ジョブズがたまたまカリグラフィを学んだ経験があったから、という話を読んだことがあるけれど、ほんとにどんな経験もどこでどんな形で役に立つかわからないなぁって思いました。 

だから、「なにやってんだろう、私」みたいな時期があるのも、くだらないことに多大な時間を割くのも、全然無駄なんかじゃないんだなって思う。

人からどんなにくだらないと笑われても「楽しい」って思うことならどんどんやればいい。

無駄な経験って一個もないって思ったです。

 

 

それでは

 

ほぼ日手帳を買った。

ほぼ日手帳、買いました。

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土曜日にデパートをうろうろしていたら、あちこちで2017年版の手帳が売られているのが目に止まって、そういえば私もそろそろ買わなければな、と物色してみたはいいものの、なかなかいいのが見当たらず…

去年買ったMARK'Sのネコの手帳がすごく気に入っているので、コレの中身だけ買えないかしら?と思ったんだけれど、中身だけって売ってないのよね、これが。

 

 

 

 

で、仕方ないので家に帰って来てネットで探すことにした。

するとMARK'Sの手帳の中身だけをオンラインショップで見つけたんだけれど、送料を含めるとデパートでカバーごと買うのとほぼ同じ値段になってしまうことが判明。

うーんどうするべか…と思いつつ、MARK'Sにかぎらず色々と探しているうちに見つけたのが、ほぼ日手帳

 

わたし、糸井重里さんが手がけたゲーム「MOTHER」シリーズが大好き。もちろん糸井さんのコピーも大好きなのだけれど、実は「ほぼ日刊イトイ新聞」はほとんど読んだことがなかった。

だからほぼ日手帳の存在自体は知っていつつも、どんな手帳なのかは全然知らなかったんだけど、概要読んで思わず欲しくなってしまったよ。

で、すぐ買いました。

 

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バタートーストのお皿と、ボールペンがおまけでついてました。

なんと可愛らしい。

ちなみにおまけのボールペンはジェットストリームです。

 

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なんかそれっぽくそのへんにあった羊羹をお皿に乗せてみたりした。(?)

1日1ページ書き込めるのがうれしい。

 

前使っていたMARK'Sのはこんなふうに↓

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ウィークリーのところの横にフリーページがある感じだったんだけれど、意外と使い方に困っちゃったのよね。仕事が週刻みで進む人なんかはこの方が都合がいいかもしれないけれど、私の仕事は別にそうでもないので、とりあえず書きたいことは左側の日付のところに書けば済んでっちゃってた。なのでこのスペースを使ってみようかと思っても、左のページと同じように日付ごとに区切ろうかどうしようか…とか悩んで、結局巻末のフリースペースに書いていったりだった。

だから、とにかくその日にあったことを何も考えずにその日のページになんでも書いていけるっていうのはとてもいい。

 

ちなみにMARK'SにもEDiTという1日1ページの手帳がありますが、そっちはもっとビジネスライクな感じ。(サイズもほぼ日にはないB6があります。)

 

 

 

 

だから仕事でバリバリ使いたいって人はEDiTのほうがいいのかもしれない。中身自体はそんなに変わらないので、好みだけれど。

私は仕事で使うってわけでもなかったので、遊び心に溢れたほぼ日手帳のほうが好みでした。色んな意味で。

 

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(こんなページもあったり。)

 

 

そして、私にとってその「色んな意味」の大きなひとつとなったのがこれ。 

  

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MOTHER2のカバー!(どせいさんステッカー付き!)

 

ほぼ日手帳はカバーの種類が非常に充実しているんですが、その中からこの子を見つけてしまった以上、もう買わない理由がなくなってしまいました。

しょうがない!好きなんだもの。

 

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カバー裏にはしおりが2つと、ポケットがたくさんついてます。

ポリエステル製なんだけど、作りがすごくしっかりしていて分厚いし、背表紙の部分以外は全然折れ曲がりません。

 

ペンホルダーは蝶番のようになっていて、手帳を閉じた状態でペンを指すと手帳が勝手に開かないようにできてます。便利!

 

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1日1ページのところは1月はじまりなのでまだ使い始められませんが、使い始めが楽しみ。

私はどちらかというと日記とか手帳とか(ブログもだけど)、あんまり続かないタイプなんですが、今年一年間久しぶりに手帳をつかってみて、やっぱり色んなことを記録しておいて後で見直せると色々と役に立つなぁと思いました。予定管理だけじゃなく、体調管理なんかにも本当に便利でした。

今年は本当に最低限のことしか書いていけなかったけれど、来年はもう少し色々書けるといいなぁ。

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ところで、2017年の手帳を買うってことはもうすぐ2017年が来ちゃうってことなんだよね。実感わかないなぁ。

 

それでは。

 

 

 

MOTHER 1+2

MOTHER 1+2

 

 

 

MOTHER 1+2 どせいさんの本   エンターブレインムック

MOTHER 1+2 どせいさんの本 エンターブレインムック

 

 

保存ボタンって、いつまでフロッピーディスクなんだろうか

2,3年前から気になりだしたんだけど、PCで使うソフトの「保存」ボタンって未だにフロッピーディスクなんですよね。


私が普段使うソフトはだいたいMicrosoftAdobeだけど、どっちも保存ボタンはフロッピーディスク
保存のボタンがフロッピーディスクじゃないソフトって見たことがない、気がする。

 

フロッピーディスクって、最近社会人になったくらいの人だと知らないよね?
私は小学4年生からパソコンの授業があって、学校では基本的に作ったデータをフロッピーディスクに保存していた世代だけど、中学校に入学したあたりではもうフロッピーディスクをほとんど見かけなくなっていた。その後私たちが学校で作ったデータを保存するツールは一瞬だけMOになって、それもすぐ消えて、あっという間にUSBが主流になった。

 

フロッピーディスクというものを知ってる世代なら、フロッピーディスクのアイコンが保存ボタンであることは直観的に理解できるだろうけど、フロッピーディスクなんて触ったことない今の若い人たちは、「保存」のボタンがなぜあの形なのか、果たして知っているんだろうか…と考えたら、なんだかものすごく時代を感じる。

 

 

…とここまで書いたところで、ふと昔にはるか年上の人に聞いたことを思い出した。 

フロッピーディスクがデータを持ち運ぶためのツールとしてメジャーになったのは、そんなにはるか昔のことではない、という話を。

 

曰く、windows95よりも前のwindows3.1の時代は、そもそもシステムデータの入った起動用のフロッピーディスクと、保存用のフロッピーディスクの2つを差さなければ使えなかった。つまり、まさにすべてのデータを(保存用の)フロッピーディスクに保存していた時代があったという。

 

だから保存ボタンがフロッピーディスクの形なのは、きっとその時代の名残なんだ。

あのフロッピーディスクは私の知っている持ち運び用の3.5インチフロッピーじゃなく、windows3.1時代の保存用フロッピーディスクを表しているんだ。

そう考えたら、すとんと腑に落ちる。

 

というのも、私の世代ではフロッピーディスクはあくまでデータを持ち運ぶためのツールでしかなかったから。

だから保存ボタンがフロッピーディスクなのは理解していたけれど、「いや、フロッピーに保存するとは限らないじゃん?」「いや、今回はハードディスクに保存しますけど?」みたいなちょっとした疑問を感じたことがあったのよね。

なーるほどね。

 

そう思うと、windows3.1が主流だった時代の方々にしてみれば私たち世代の認識だって十分「時代を感じる」んだろうなぁ。

 

それにしても、今更保存ボタンがフロッピーディスクの形じゃなくなっちゃったら、わからないだろうな~。フロッピーがハードディスクになってから二十年くらいは経っていて、最近ではハードディスクすらフラッシュストレージに替わっていってるけど。今更、保存ボタンがフラッシュストレージとかUSBの形になったりしたら、わかっていても目が認識できない気がする。

それに、フラッシュストレージって、画像検索してみる限りは、すごくアイコンにしづらそうな形をしている。もしフラッシュストレージ型の保存ボタンを実用化することになった暁には、デザイナーさんは大変そうだな。

 

など、など。


色々考えたけど、そもそも今の人たちはパソコン使わない、らしいね。
大学生なんかも、スマホでレポート書いちゃうと言うし。そのほうが速いんだって。

 

スマホのメモ帳とかで書いてるんだとしたら、自動保存だから保存ボタンとかないもんね。そのうち自動保存が主流になって、保存ボタンというもの自体がなくなっちゃうのかもね。

 

う~ん。やっぱり時代を感じる。よく考えたら平成ももうすぐ終わっちゃうんだもんなぁ。

 

無理もない。


それでは

クリスマスはどうして恋人のイベントなのか

台湾へ行ったり仕事ででかいイベントがあったりなんだりでちょっと間があきました。

 いつのまにか、世の中はもうすぐクリスマスですね。

 

昔から不思議に思ってることがあるんですが、日本におけるクリスマスってどうして「恋人同士で過ごす日」になっちゃったんでしょうか?

 

言うまでもなくクリスマスというのは「イエス・キリスト」の誕生日なんですが、多分日本生まれ・日本育ちでおうちがキリスト教じゃない場合、ほとんどの人はクリスマスとの最初の接点は「サンタさん」でしょ。

子どもたちにとっての「クリスマス」は「いい子にしてればサンタさんがプレゼントをくれる日」でしょ。で、その子どもたちが大きくなると自然とサンタさんは来なくなって、「とりあえずツリーとか飾ってみて、なんとなくチキンとか食べたりして、普通におとーさんおかーさんからプレゼントをもらったり、友だち同士でプレゼント交換したりする日」になるんじゃないかな。

それが、もう少し大きくなって彼氏・彼女ができるような年になると、途端に「恋人と過ごす日」になる。

 

なんで???

 

 

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で、自分なりにクリスマスにおける恋人要素について考えてみる。

 

恋人要素その1:イルミネーション

クリスマスになると街路樹にイルミネーションがかけられたりして、夜の景色は大変きらびやかになりますよね。普通に街を歩くだけでも「夜景デート」って感じになる。あれは確かにロマンチックだし、家族と行くより恋人と行くほうがいいというのも頷けます。おとーさんおかーさん、夜外に連れ出すと寒いしね。

 

恋人要素その2:プレゼント

クリスマスにおけるプレゼントといえばサンタさんがくれるものだけど、サンタさんが来るのは子どものときだけです。サンタさんが来ない年になると、それ以降はサンタさんじゃない人がプレゼントをくれたり、自分がプレゼントをあげたりするようになります。

そのプレゼントをあげる、もらうという要素だけを見れば、友だちや兄弟にあげるならそれより恋人にあげたい、って感じになるんでしょうなぁ。なんでもない日にプレゼントっていうのも照れくさいから、口実の一つとしてとか、プレゼントをあげる機会の数増やしに、みたいなのもありそう。

 

恋人要素その3:クリスマスディナー

ある程度成長してくると、家族みんなでパーティっぽくワイワイご飯を食べる、みたいなのが照れくさくなる時期が来ますよね。正月と違って親戚が集まったりもしないので、おせちなら仲良しのイトコたちと一緒に食べれても、いつものおとーさんおかーさんおにーちゃんおねーちゃん…のメンバーでワイワイごはんってのも、なんか気まずくなっちゃったりするんでしょう。

だから家族じゃない人と過ごそう、となる。んで、ここで更に要素その1と2とが合わさると結果的に友だちよりか恋人と外でクリスマスディナー、となるんだろーな。

 

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ぱっと思いつくのはこれくらいなんだけど、これ、どれも「クリスマス」そのものではなくて「クリスマスに付随するもの」なんですよね。「お正月が好き」なんじゃなくて「おせちが好き」みたいな。

 

で、その「クリスマスに付随するもの」がたまたまどれも家族より恋人としたいことばっかりだったから、なんとなくみんなそれらを恋人とするようになって、いつしか「え?クリスマスに恋人と過ごさないの??」みたいな感じになっちゃったんだよね。きっと。

 

「クリスマス」そのものでなくて「クリスマスに付随するもの」だけに目を向けてしまうのは、やっぱりキリスト教じゃない人が多いから、というか、「クリスマスに恋人と過ごす」という習慣を作ってる、またはそれに乗っかってる多数派の人たちがキリスト教じゃないから、なのでしょうね。

 

多分、お正月に恋人にお年玉あげる・もらうとか、恋人とふたりでおせち食べる、みたいな人ってそんなに多くはないよね。親戚を家に呼んだり、親戚の家を訪問したりする人が多いんじゃない?

でもそれは日本がそういう習慣だからであり、お正月に付随するものだけに目を向けているわけじゃないからであり。

日本のそういう習慣に染まっていない人ならば、日本におけるクリスマスと同じように、「正月だからとりあえずおせち食べよう、家族よりも恋人と会いたいから恋人と食べよう」→「え?正月に恋人と過ごさないの?ナウなヤングのくせにチョベリバ〜」みたいなことになるのかもしれない。

 

 

どうでもいいことですが、あたしは正直クリスマスはそんな好きじゃないです。

世の中の浮かれてる人がむかつくとかじゃなくて、クリスマスにケーキ屋で働いていた時に結構つらかった思い出があるからです。

 

ケーキ屋さんはすごいですよ。ケーキ屋と言う名の戦場、オーブンと言う名の戦車、ケーキという名の銃弾、店員という名の戦士です。心から尊敬します。あたしはもう、あんなところでは二度と働けませんです。

 

 

それでは〜

死ぬのは全然、怖くないんだけど。

私は、死ぬことを嫌だとか、怖いとか思ったことがあんまりないです。

 

人前では「死ぬの怖いよー」とか言ってるかもしれないけど、実は全然怖くない。それは死ぬかもしれないような経験をしたことがないからかもしれないし、夫や子どもがいるわけじゃない身軽な状態だからかもしれない。

けれど、とにかく、怖くない。今「余命1ヶ月ですよ」みたいなことを言われてたとしても多分「へぇー、そっかぁ」って感じだと思う。

 

もちろん、重い病気やなんかで、文字どおり「死ぬほど」痛い思いをして過ごしながら本当に「死ぬ」時を待つのみ、みたいな状態はすごく嫌だけど、そこまで大した痛みとか苦しみとかを感じないまま、サクッと死ぬ日を迎えるっていうのは、全然怖くない。それが明日でも、別にいいよって感じ。

 

そのせいかわからないけど、自分が死んだときのことはよく想像する。死後の世界がどうなってるとかじゃなくて、自分が死んだらどうやって職場に連絡が行くのかとか、お母さんとか弟とかに私のパソコンのパスワード開けられたらやだなとか、そういうこと。
そういうリアルなことを考えてると余計に、自分が死ぬことってそんな大したことじゃないんじゃないかなって思えてくる。自分が死ぬことで悲しむ人がいるならば、その人たちに対して申し訳ないとは思うけど。

 

もしも今、家族や恋人が突然死ぬようなことがあったら、ものすごく悲しい。それこそ死んじゃうくらい、悲しいと思う。だけど、自分が今死ぬとなっても、そんな悲しくないし、むしろ、どうなるのかなって興味すら湧くことがある。

だからといって自殺なんかは考えたこともないし、考えたくもないけど。だって、痛そうだし苦しそうだから。

 

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多分、私は死ぬことを「卒業する」くらいの感覚で認識してるんだと思う。
学校に通っていた頃も、卒業することを怖いとか嫌だとか思ったことはなかったし、時期が来たらそりゃ卒業するもんだよねって感じだったし。


でも、思い返してみれば、周りの子たちの中には「卒業したくない」って言ってる子もいたし、卒業式で号泣してる子なんかはもっとめっちゃいっぱいいた。私はどうしてみんな泣くのか、全然わからなかったけど。卒業式なんて、これから新しい環境へ行けることへのわくわくくらいしか、感じなかったけどなぁ。

 

そう考えると、自殺は「自主退学」に似てるのかもしれない。私が自殺を嫌だと思うのは「自主退学」をしたくないのと似ている。それはもちろん、「死」と同じように自主退学を考えるような出来事を経験してないからかもしれないけど。
だって、自主退学は色々と面倒でしょ。何回も先生や事務の人と面談して、「考え直せ」とか色々言われたりするのを説得して、面倒な書類を書いたり、言い訳も考えなきゃいけない。

 

普通に通い続けることができれば「卒業」という形で自然と学校を去ることができるのに、わざわざ面倒な手続きを踏んでまで「退学」をするというのがすごく非効率的に感じる。「自殺」から受ける印象も、そんな感じ。

 

「自殺」は自然な死に方ではないので、ちゃんと死ねるように色々準備しなきゃいけない。必ず苦しい思いをするだろうし、もし上手く死ねなくてその現場を誰かに見つかったりしたら、エラいことになる。普通にしてれば死ぬのに、そこまでして、今、死ななきゃいけないのはなぜ?って思う。

 

学校の場合なら、普通に通い続けるってこと自体が難しい場合もあるから、自主退学もわかる。卒業に必要な単位が到底取れそうにないとか、経済的な理由とか子どもができたとか、実家を継がなきゃいけないみたいな理由で退学せざるを得ないケースはあるよね。「芸人になりたいから養成所へ行く」とか、「職人になりたいから弟子入りする」といって辞める子もいる。そういう場合はポジティブだ。

 

だけど、自殺に関しては「自殺せざるを得ないケース」って、思いつかない。普通に生きていくことが難しくなってしまうことはあるかもしれないけど、そこで「じゃあ、死ぬしかない」って考えていいものなのか。


それに、自殺はポジティブな理由にもなりえない。「おばけになりたいから自殺します」とか言って、応援してくれる人いないでしょ。おばけになったOBとか、いるかどうかもわかんないし。

 

最後ふざけたけど、「就職に失敗した」とか、「仕事がつらくて」みたいな理由での自殺はやっぱりよくない…と思う。どんな人でも最終的には死んでしまうんだけど、自分の手で自分の命を終わらせるのは駄目だと思う。

 

もうどうにもならなくて、このまま生きてくのも辛いというならば、どうか皆、「死」以外のところへ逃げてほしいな。実家でもいいし、実家から最も遠いところでもいいし。外国でもいい。

「死」はこっちから行かなくても待ってれば必ずやってくるのだから。

 

自殺とかのニュースを見ていると、いつもそんなことを考えます。

 

 

 

それでは