三々五々

日常の中で考えたこととか、自分の生活の中で体験して得たこととかを発信していきたいと思います。

手帳・ブログ・日記

私はふだん自分のことをおもに3つの媒体に記録しています。
一つが手帳、一つがこのブログ、もう一つが日記です。

少し前までは思いついた時にだけ書く日記しか使っていませんでしたが、最近になって手帳を使い始め、更に最近になりこのブログを始めました。

今日はこの3つをどう使い分けているかを書いてみようと思います。

 

まず一つ目の手帳について。

これは、少し前にも「ほぼ日手帳を買った」という記事を書きましたが、いわゆる市販の手帳を買って、スケジュール帳として使っています。

ここに記録しているのは自分のスケジュール(仕事やプライベートの予定)と、自分の体調。スケジュールは大抵前もって記入しておきますが、体調はその日の終わりにその日の体調がどうだったかを、できるだけ毎日、でも大抵はなにか調子が悪かった日にだけ、記入しています。もし余裕があれば食べた物や行った場所なども。

体調を記録するのは今回手帳を買ってみて初めての試みだったのですが、思ったよりも役に立ちました。自分の身体について意外と色んなことがわかります。

私の場合、体調の変化が大体毎月同じサイクルでやってきていることがわかりました。「げっ、めっちゃ肌荒れしてる!」って思ったときに先月のページをめくってみると、先月も同じ時期に肌荒れしてたりとか。面白いです。最近胃がもたれるな~と思って記録を見ると、今週は肉と揚げ物ばっかり食べてた、なんてことも。

また、体調を崩したときは症状と体温も記録するので、お医者さんにかかったときの「いつからどんな調子ですか」という質問にスグに・具体的に答えることができて便利です。フラフラしているときに色々考えたり思い出そうとしたりしなくていいの、めっちゃラク。お腹を壊したときなんかに、前日に食べたものなんかをすぐ思い出せるのもイイです。

体調を記録するの、役に立つし単純に面白いので、けっこうおすすめです。

 

次にこのブログ。

読んでいただければわかりますが、このブログは私の思考の記録です。

私は考えることが好きなので、通勤途中や頭を使わない作業中なんかに、真剣なこともあほなことも答えの無いことも含めて色んなことをひたすら考えます。考えること自体は今までもさんざんしていましたが、今までそれらは一切記録していませんでした。

そのうちに「アレ?これ、前も同じことを考えたな」みたいな瞬間がよくあることに気付いて、1度考えたことは記録しておこう、と思い至りました。記録するならメモ帳でもチラシの裏でもよかったんですが、自分だけが見れるようにしておくとあまり見直さないし、どうせなら誰かに聞いてほしかったので、思い切ってブログにしました。

ブログにしてみてよかったことが3つくらいあります。

ひとつめは、一人で悶々と考えていたときよりも思考の質が上がったこと。

ただ考えているだけだったときは、色々考えてはいるものの思考の整理がつかなくて、別々の話が混ざってわけがわからなくなったりすることがよくあったし、わからなくなったらそこで尻切れトンボでした。でもブログを作ってからは、考えていることに対して「これは公開する文章だ」という意識が働いて、あやふやに考えていても最終的には(一応)筋を通そうとする習慣がつきました。無意識に「最後まで考える」「落としどころをつける」習慣がついたことは、仕事や日常の会話の面でも役に立っています。

ふたつめは、アンテナを立てられるようになったこと。

ブログを始める以前は「偶然の思い付き」がすべてだったので、考えるネタ集めも安定しなかったのですが、ブログを書くようになってからは、考えるネタになりそうなことを意識しなくても生活の中であちこちから得ることができるようになりました。結果的に引き出しの中身が増えて、ものごとに対する感受性も上がったと感じます。

みっつめは、考えていることを文章にまとめるという作業に慣れたこと。

私は一度ほぼひきこもり生活中に英語ばかり使っていたら日本語がめっちゃ下手になったという経緯があり、そこからは文章を書くことにすっかり自信がなくなっていました。なんというか、日本語が母語じゃない人が書いたみたいな文章になってたのです。でもブログを始めてからは、ブログを始める以前と比べて文章を書くスピードが格段に上がったし、段々日本語らしい日本語を書けるようになったと思います。そのかわり、英語忘れには歯止めがかかりませんが。


最後に日記。

これはどこにも公開していない自分だけが見れる日記です。内容はブログとは違い、私の行動・私のまわりに起きた事実の記録と、私自身のことのみについての思考の記録です。毎日は書かずに、書きたいときだけ・何か大きな出来事があったときにだけ書きます。主に自分や自分の周りに起きたことをふり返るために書いています。

日記を書くときに、特に気を付けていることがあります。
それは「事実」と「思考(主観)」を極力混ぜないこと。
「事実」の日記と「思考」の日記は、同じ日に書いていてもわざわざ記事を分けるくらい、徹底しています。

なぜそんなことをするのかというと。

例えば……ちょっと良い例えが思いつきませんが、ある日誰かに「貴方ってクールだよね」と言われたとします。

その言葉は、状況によって「貴方はカッコイイよね」とも、「貴方は冷静だよね」とも、「貴方は薄情だよね」とも取ることができますが、その日はたまたまそれを「薄情」と言われたように感じ、ショックを受けたとします。

その時日記を書くときに気を付けることは、決して「薄情と言われた」と書かないこと。事実の記録として前後の状況を記述した上で「クールと言われた」、と書いて、おわりにします。もしどうしてもショックな気持ちを吐き出したければ、更に思考の記録として「クールと言われたが、それは薄情と言われたように感じた」と、事実なのか、感じたことなのかを明確に書きます。

なぜそうするのかというと、もしも「薄情と言われた」と書いてしまうと、本当はそれは事実ではないのにもかかわらず、何日か経って読み返したときに、それが「事実」としてまた自分にショックを与えてしまうからです。書いたその瞬間はそれが単なる主観であることを覚えていても、何日か経つとそれが事実ではないことを忘れてしまうんです。この場合は結果的に、ショックな気持ちを反芻することになってしまう。

「クールと言われた」とだけ書いておけば、後日読み返したときにはそれを「薄情と言われた」と感じずに、「なんだ、なんかあの時はやたらとショック受けたけど、別に薄情って意味で言われたわけでもなさそう」と立ち直れることもあります。他人の言葉から受ける印象って、それくらいその日の感情に左右されるものなんです。

 

 

こんな感じで、私は

手帳……自分のスケジュールと体調

ブログ…考えたこと

日記 ……自分の周りに起こったこと、自分自身のことについて考えたこと

という感じで使い分けています。

 

基本的にどれも「あとで振り返りたくて」記録しています。

経験上、「私は何をしてきたんだろうか」とふと考えて呆然としてしまうことがこれまでによくあったので、そこから少しずつ、自分のことを記録するようになりました。

日々の生活を送ることに精一杯だと、自分のしてきたことを見失いがちになります。「こういうふうに過ごしてきた」「こんなことを考えた」という目に見える痕跡は、自分がどこからどれくらい進んできて、どこへ還っていけばいいのかがわかって安心できる、パンくずのようなものだと思っています。

今後パンくずがどんどん伸びていって、私の落としたパンくずを見つけてくれる人が増えていったら、嬉しいかもしれない。

 

 

それでは

悩み事があるって幸せ

最近の私は悩み事ばっかりです。
毎日似たようなことで常に悩んでいます。

「今、こーゆーことで悩んでて、こーゆー風にしようと思ってるんだけど〜」と、誰彼構わず悩みとかそれに対する考えとかを打ち明けたりしています。

すると大抵みんなに「いいじゃん〜、それで。」と言われ、「でも、絶対大変やんか?」と言うと、大抵「にもりさんなら大丈夫よ」と言われます。
ほんまかいな。

 

そして同じように昨日も話していたんだけど、その人は、ほかの人たちと同じように多数派の反応を返した後、「悩むことがあっていいな〜。私、悩みがないよ。」と言う。
これは初のケースだった。その人、とても若くして結婚・出産してる人なんだけど。悩み、ないんかい!すごいな。

 

だけど、思い返してみると、私にも悩みがない時代があった。悩みがないというより、何に悩めばいいかわからなかった。

その時代、私は時々無性に悲しくなったり、イライラして、どうしようもなくなることがあった。何に悩んでいるわけでもないのにそんな状態になるので、どうしていいかわからなかった。

もしかすると、悩みがないことについて悩んでいたのかもしれない。とにかく、なににも困っていないのに、すべてに困っているような、変な状態だった。

 

なににも困っていないということは、なにも解決しようとしなくていいということだ。そして、なにも解決しようとしなくていいということは、なにもがんばらなくていいということだ。

その時の私は、がんばっている人たちを見ることがつらかった。
がんばっている人たちを見ると、この人たちはこんなにがんばっているのに、私はどうして何もしなくていいのか?と、心苦しくなるからだった。

で、その心苦しい気持ちを解消するためになにかをがんばってみようと思って色々したけれど、所詮なにもがんばらなくていいので、なにもがんばれなかった。

 

今は、がんばらなきゃいけないことをたくさん見つけた。

がんばらなくても致命的ではないけれど、ちょっと悲しいことになるくらいのことはありそうなので、なんとかがんばれている。

 

今、悩み事は山ほどあるけれど、悩み事がなかったときよりもずっと息がしやすい。

確実に。

悩み事があるのは幸せだ。

 

 

それでは

狙い撃ちのGU、万人受けのUNIQLO

GUもUNIQLOもすごいけど、やっぱりGUがよりすごいよねって話。

 

あたしは薄給事務員なので、服とかにあんまりお金をかけ(られ)ません。しかも内勤だしゆる〜い会社なので、そんなにかっちりした服を着る必要がない。


少し前までは服やおしゃれ自体にあまり興味がなかったので、知り合いのお姉さんがやってるブティックでおまかせで選んでもらった1着1~2万円くらいの服を春と秋に1回ずつくらい、1着や2着買ってそれを2年も3年も着まわす、って感じだったんですが、最近はもっぱらワンシーズンに1回、1着1000~2000円の服を1万円分くらい買って、くたびれたらすぐさよなら、って感じです。


最近買った服は8割がジーユーで、残りの2割はたぶんその辺のショッピングモールのプライベートブランドものと、ブティックで買ったパーティ用のドレスくらい。
で、服の下に着る肌着みたいな外に出さない衣類は99%がユニクロ

 

ジーユーって、ほんとにすごいなと思う。
ユニクロも出てきたころはすごいなって思ったけど、ジーユーのほうがもっとすごい。

 

何がすごいかっていうと、ターゲットを絞って狙い撃ちしてるところ。

 

ジーユーの服はユニクロと比べると、最近のトレンドをしっかり追っているって気がする。
私はファッション誌とか見るようになったのがごく最近なので昔のことはわかりませんが、基本的にファッショントレンドって移り変わりがものすごく早いです。
大体こういう傾向、っていうのは2,3年くらい続くんだけれど、その間もマイナーチェンジ的な変化はずーっとしていく。
例えば2014年はガウチョパンツがトレンドだったけれど、2015年はそれが派生してスカーチョ(スカートに見えるガウチョ)が出てくる、みたいな。

 

だから、流行に沿って服を選んで行こうと思うと、1つの服を同じように着まわしていける期間って結構短い。せっかく買った服も、いい値段したのにすぐ着なくなっちゃう、なんてこともよくある。

それに、雑誌で見て、欲しい!って思ったような服って意外とそんなすぐにその辺の服屋さんとかでは見つからなかったりする(これは私の住んでるエリアが田舎だからかもしれない…) 。だけどジーユーに行けば「いまどきの服」がすぐに見つけられる。

ジーユーはまさに、「流行りの服を」「安く」「スグに」手に入れられるってことに重点を置いてて、それが見事に成功している。

 

ジーユーの服はぺらぺらだし縫製もダメダメよ、みたいな意見はよく見るし、実際私もジーユーの服の作りがしっかりしてるとは思わないけど、ジーユーのターゲットはあくまで「若者」。若者にとっては作りは二の次で、とにかく「流行り」と「値段」がネックになってるからこれで十分、ってとこなんですよね。いい布といい縫製に出すお金なんて若者は持ってないから。

 

んで!もう一個すごいのは「若者」がターゲットであるからして、広告系は全部アプリ(デジタル)。紙面広告は一切なしです。この潔い切り捨て方、ステータスの極振りっぷりは本当お見事って感じ。

 

いっぽうユニクロは、ジーユーと比べると、とにかく万人受けを狙ってる感じ。

出てきた頃はとにかく「シンプルな服が」「なんでも手に入る」って感じだったけれど、最近は特にウルトラライトダウンとかヒートテックみたいに「機能性」に重点を置いてる感じがする。

デザインはそれによってターゲットとなる世代に幅がありますが、機能性とシンプルさは世代に関係なく求められるものです。
品質も、ジーユーより価格が少し高め(というかジーユーが安すぎ)な分、ジーユーより上な感じ。


全てを切り捨てて若者狙いのジーユー、今も昔も変わらずみんなに愛されたいユニクロ

ジーユーがユニクロの売り上げを越すかも?ってあちこちで言われてますが、越すことはあってもユニクロがなくなるってことはなさそう。ふたつのブランド、ちゃんと棲み分けができてるからね。

 

 

それじゃ 

無駄と見せかけて貴重な経験

つい最近Web業界へ転職しようと思い立ち、半年ほど前からWebの勉強を始めました。子どもの頃からホームページを作ったりするのは好きで、実際作ったこともあったし、ブログもいくつもやったけれど、それを仕事にしようって思ったのは初めて。

だから、元々持ってる知識なんてちょっと端っこをかじっただけのHTML(15年前くらいのやつ)くらいだった。当時はメモ帳で作っていたから、ドリームウィーバー?なにそれ映画?って状態。

 なので勉強はほぼ予備知識ゼロからのスタートで、覚えることがいっぱいだな~と思っていたんですが、ふと、私の意外な経験が役に立ってることに気付いたんです。

 

私、2012年~2014年頃にかけてプライベートの時間をすべてほぼ引きこもりみたいな生活をして過ごしてたんですが、その間ずっと英語の二次創作ブログをやっていました。

なんで英語だったかっていうと、単純にその二次創作してた元の作品がアメリカの作品で、すべて英語だったから。日本語版も出てなくてファンもほとんど英語圏の人たちだったため、最初は日本語で始めたものの誰にも反応してもらえませんでした。(悲しかった)

で、一人で黙々とやってても寂しいので仕方なく英語で始めたんだけど、この作品がどうも日本以外の世界中では(?)かなり有名な作品だったらしくて、みるみるうちに閲覧数が増え、ありがたいことに結構なフォロワー数になってしまった。

そんなこんなで、毎日毎日英語でメッセージやらリクエストやらがひっきりなしに届くような状態になって、それを毎日毎日ちぎっては投げ、投げてはちぎっているうちに英語がかなり上達し、見事ペラペラになりました。

嘘です。なりませんでした。書けるようにはなったけれど、話せるようにはなりませんでした。ブログのファンの方からビデオチャットしよう!とか言われることもよくあって、「ごめん、喋れないんだよね」とかって断るんだけど、99.9%の確率で「今英語でやりとりしてんのに何言うてんねん、おかしなやっちゃな」みたいな反応をされました。

しかも、ほとんど誰とも話さずに引きこもってずっと英語を書いてばかりいたので、しばらく日本語の読み書きがめっちゃ下手くそになりました。そしてそれを元に戻すために日本語を書きまくっていたら、今度はせっかく上達した英語を忘れてしまいました。

 

でも、役に立った私の意外な経験というのがまさにこの引きこもりブログ時代の経験でした。この経験によって英語のタイピング速度が劇的に上がっていて、日本語を打つのと変わらない速度で英語をタイピングできるのに加え、簡単な英単語なら大体知っている+知らない単語も大体意味の予想がつくというスキルを自然と身に付けていました。

英語のタイピングにとても慣れていたことで、手打ちでコーディングするときはスクールの他のメンバーよりもかなりスピーディにできるし、HTMLやCSSに出てくるような英単語なら大体知っているので、習ったタグやコードの意味を特に覚えようとしなくても頭に入れることができています。

 

引きこもりみたいな生活をしていた頃のことは、私の中ではほぼ黒歴史扱いだったんですが、その経験がこんなに役立つ日が来るとは思いもしませんでした。

Dreamweaverを使ってればそんなにキーボードを叩いてコーディングすることも(今の私のレベルではまだそんなに)ないんですが、だからこそ、元々のタイピング慣れがなければ作業速度のことでもっと悩んでいたかもしれないし、色んなHTMLタグの意味をなかなか覚えることができなかったかもしれません。

 

Macのフォントが美しい理由は、スティーブ・ジョブズがたまたまカリグラフィを学んだ経験があったから、という話を読んだことがあるけれど、ほんとにどんな経験もどこでどんな形で役に立つかわからないなぁって思いました。 

だから、「なにやってんだろう、私」みたいな時期があるのも、くだらないことに多大な時間を割くのも、全然無駄なんかじゃないんだなって思う。

人からどんなにくだらないと笑われても「楽しい」って思うことならどんどんやればいい。

無駄な経験って一個もないって思ったです。

 

 

それでは

 

ほぼ日手帳を買った。

ほぼ日手帳、買いました。

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土曜日にデパートをうろうろしていたら、あちこちで2017年版の手帳が売られているのが目に止まって、そういえば私もそろそろ買わなければな、と物色してみたはいいものの、なかなかいいのが見当たらず…

去年買ったMARK'Sのネコの手帳がすごく気に入っているので、コレの中身だけ買えないかしら?と思ったんだけれど、中身だけって売ってないのよね、これが。

 

 

 

 

で、仕方ないので家に帰って来てネットで探すことにした。

するとMARK'Sの手帳の中身だけをオンラインショップで見つけたんだけれど、送料を含めるとデパートでカバーごと買うのとほぼ同じ値段になってしまうことが判明。

うーんどうするべか…と思いつつ、MARK'Sにかぎらず色々と探しているうちに見つけたのが、ほぼ日手帳

 

わたし、糸井重里さんが手がけたゲーム「MOTHER」シリーズが大好き。もちろん糸井さんのコピーも大好きなのだけれど、実は「ほぼ日刊イトイ新聞」はほとんど読んだことがなかった。

だからほぼ日手帳の存在自体は知っていつつも、どんな手帳なのかは全然知らなかったんだけど、概要読んで思わず欲しくなってしまったよ。

で、すぐ買いました。

 

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バタートーストのお皿と、ボールペンがおまけでついてました。

なんと可愛らしい。

ちなみにおまけのボールペンはジェットストリームです。

 

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なんかそれっぽくそのへんにあった羊羹をお皿に乗せてみたりした。(?)

1日1ページ書き込めるのがうれしい。

 

前使っていたMARK'Sのはこんなふうに↓

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ウィークリーのところの横にフリーページがある感じだったんだけれど、意外と使い方に困っちゃったのよね。仕事が週刻みで進む人なんかはこの方が都合がいいかもしれないけれど、私の仕事は別にそうでもないので、とりあえず書きたいことは左側の日付のところに書けば済んでっちゃってた。なのでこのスペースを使ってみようかと思っても、左のページと同じように日付ごとに区切ろうかどうしようか…とか悩んで、結局巻末のフリースペースに書いていったりだった。

だから、とにかくその日にあったことを何も考えずにその日のページになんでも書いていけるっていうのはとてもいい。

 

ちなみにMARK'SにもEDiTという1日1ページの手帳がありますが、そっちはもっとビジネスライクな感じ。(サイズもほぼ日にはないB6があります。)

 

 

 

 

だから仕事でバリバリ使いたいって人はEDiTのほうがいいのかもしれない。中身自体はそんなに変わらないので、好みだけれど。

私は仕事で使うってわけでもなかったので、遊び心に溢れたほぼ日手帳のほうが好みでした。色んな意味で。

 

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(こんなページもあったり。)

 

 

そして、私にとってその「色んな意味」の大きなひとつとなったのがこれ。 

  

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MOTHER2のカバー!(どせいさんステッカー付き!)

 

ほぼ日手帳はカバーの種類が非常に充実しているんですが、その中からこの子を見つけてしまった以上、もう買わない理由がなくなってしまいました。

しょうがない!好きなんだもの。

 

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カバー裏にはしおりが2つと、ポケットがたくさんついてます。

ポリエステル製なんだけど、作りがすごくしっかりしていて分厚いし、背表紙の部分以外は全然折れ曲がりません。

 

ペンホルダーは蝶番のようになっていて、手帳を閉じた状態でペンを指すと手帳が勝手に開かないようにできてます。便利!

 

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1日1ページのところは1月はじまりなのでまだ使い始められませんが、使い始めが楽しみ。

私はどちらかというと日記とか手帳とか(ブログもだけど)、あんまり続かないタイプなんですが、今年一年間久しぶりに手帳をつかってみて、やっぱり色んなことを記録しておいて後で見直せると色々と役に立つなぁと思いました。予定管理だけじゃなく、体調管理なんかにも本当に便利でした。

今年は本当に最低限のことしか書いていけなかったけれど、来年はもう少し色々書けるといいなぁ。

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ところで、2017年の手帳を買うってことはもうすぐ2017年が来ちゃうってことなんだよね。実感わかないなぁ。

 

それでは。

 

 

 

MOTHER 1+2

MOTHER 1+2

 

 

 

MOTHER 1+2 どせいさんの本   エンターブレインムック

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保存ボタンって、いつまでフロッピーディスクなんだろうか

2,3年前から気になりだしたんだけど、PCで使うソフトの「保存」ボタンって未だにフロッピーディスクなんですよね。


私が普段使うソフトはだいたいMicrosoftAdobeだけど、どっちも保存ボタンはフロッピーディスク
保存のボタンがフロッピーディスクじゃないソフトって見たことがない、気がする。

 

フロッピーディスクって、最近社会人になったくらいの人だと知らないよね?
私は小学4年生からパソコンの授業があって、学校では基本的に作ったデータをフロッピーディスクに保存していた世代だけど、中学校に入学したあたりではもうフロッピーディスクをほとんど見かけなくなっていた。その後私たちが学校で作ったデータを保存するツールは一瞬だけMOになって、それもすぐ消えて、あっという間にUSBが主流になった。

 

フロッピーディスクというものを知ってる世代なら、フロッピーディスクのアイコンが保存ボタンであることは直観的に理解できるだろうけど、フロッピーディスクなんて触ったことない今の若い人たちは、「保存」のボタンがなぜあの形なのか、果たして知っているんだろうか…と考えたら、なんだかものすごく時代を感じる。

 

 

…とここまで書いたところで、ふと昔にはるか年上の人に聞いたことを思い出した。 

フロッピーディスクがデータを持ち運ぶためのツールとしてメジャーになったのは、そんなにはるか昔のことではない、という話を。

 

曰く、windows95よりも前のwindows3.1の時代は、そもそもシステムデータの入った起動用のフロッピーディスクと、保存用のフロッピーディスクの2つを差さなければ使えなかった。つまり、まさにすべてのデータを(保存用の)フロッピーディスクに保存していた時代があったという。

 

だから保存ボタンがフロッピーディスクの形なのは、きっとその時代の名残なんだ。

あのフロッピーディスクは私の知っている持ち運び用の3.5インチフロッピーじゃなく、windows3.1時代の保存用フロッピーディスクを表しているんだ。

そう考えたら、すとんと腑に落ちる。

 

というのも、私の世代ではフロッピーディスクはあくまでデータを持ち運ぶためのツールでしかなかったから。

だから保存ボタンがフロッピーディスクなのは理解していたけれど、「いや、フロッピーに保存するとは限らないじゃん?」「いや、今回はハードディスクに保存しますけど?」みたいなちょっとした疑問を感じたことがあったのよね。

なーるほどね。

 

そう思うと、windows3.1が主流だった時代の方々にしてみれば私たち世代の認識だって十分「時代を感じる」んだろうなぁ。

 

それにしても、今更保存ボタンがフロッピーディスクの形じゃなくなっちゃったら、わからないだろうな~。フロッピーがハードディスクになってから二十年くらいは経っていて、最近ではハードディスクすらフラッシュストレージに替わっていってるけど。今更、保存ボタンがフラッシュストレージとかUSBの形になったりしたら、わかっていても目が認識できない気がする。

それに、フラッシュストレージって、画像検索してみる限りは、すごくアイコンにしづらそうな形をしている。もしフラッシュストレージ型の保存ボタンを実用化することになった暁には、デザイナーさんは大変そうだな。

 

など、など。


色々考えたけど、そもそも今の人たちはパソコン使わない、らしいね。
大学生なんかも、スマホでレポート書いちゃうと言うし。そのほうが速いんだって。

 

スマホのメモ帳とかで書いてるんだとしたら、自動保存だから保存ボタンとかないもんね。そのうち自動保存が主流になって、保存ボタンというもの自体がなくなっちゃうのかもね。

 

う~ん。やっぱり時代を感じる。よく考えたら平成ももうすぐ終わっちゃうんだもんなぁ。

 

無理もない。


それでは

クリスマスはどうして恋人のイベントなのか

台湾へ行ったり仕事ででかいイベントがあったりなんだりでちょっと間があきました。

 いつのまにか、世の中はもうすぐクリスマスですね。

 

昔から不思議に思ってることがあるんですが、日本におけるクリスマスってどうして「恋人同士で過ごす日」になっちゃったんでしょうか?

 

言うまでもなくクリスマスというのは「イエス・キリスト」の誕生日なんですが、多分日本生まれ・日本育ちでおうちがキリスト教じゃない場合、ほとんどの人はクリスマスとの最初の接点は「サンタさん」でしょ。

子どもたちにとっての「クリスマス」は「いい子にしてればサンタさんがプレゼントをくれる日」でしょ。で、その子どもたちが大きくなると自然とサンタさんは来なくなって、「とりあえずツリーとか飾ってみて、なんとなくチキンとか食べたりして、普通におとーさんおかーさんからプレゼントをもらったり、友だち同士でプレゼント交換したりする日」になるんじゃないかな。

それが、もう少し大きくなって彼氏・彼女ができるような年になると、途端に「恋人と過ごす日」になる。

 

なんで???

 

 

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で、自分なりにクリスマスにおける恋人要素について考えてみる。

 

恋人要素その1:イルミネーション

クリスマスになると街路樹にイルミネーションがかけられたりして、夜の景色は大変きらびやかになりますよね。普通に街を歩くだけでも「夜景デート」って感じになる。あれは確かにロマンチックだし、家族と行くより恋人と行くほうがいいというのも頷けます。おとーさんおかーさん、夜外に連れ出すと寒いしね。

 

恋人要素その2:プレゼント

クリスマスにおけるプレゼントといえばサンタさんがくれるものだけど、サンタさんが来るのは子どものときだけです。サンタさんが来ない年になると、それ以降はサンタさんじゃない人がプレゼントをくれたり、自分がプレゼントをあげたりするようになります。

そのプレゼントをあげる、もらうという要素だけを見れば、友だちや兄弟にあげるならそれより恋人にあげたい、って感じになるんでしょうなぁ。なんでもない日にプレゼントっていうのも照れくさいから、口実の一つとしてとか、プレゼントをあげる機会の数増やしに、みたいなのもありそう。

 

恋人要素その3:クリスマスディナー

ある程度成長してくると、家族みんなでパーティっぽくワイワイご飯を食べる、みたいなのが照れくさくなる時期が来ますよね。正月と違って親戚が集まったりもしないので、おせちなら仲良しのイトコたちと一緒に食べれても、いつものおとーさんおかーさんおにーちゃんおねーちゃん…のメンバーでワイワイごはんってのも、なんか気まずくなっちゃったりするんでしょう。

だから家族じゃない人と過ごそう、となる。んで、ここで更に要素その1と2とが合わさると結果的に友だちよりか恋人と外でクリスマスディナー、となるんだろーな。

 

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ぱっと思いつくのはこれくらいなんだけど、これ、どれも「クリスマス」そのものではなくて「クリスマスに付随するもの」なんですよね。「お正月が好き」なんじゃなくて「おせちが好き」みたいな。

 

で、その「クリスマスに付随するもの」がたまたまどれも家族より恋人としたいことばっかりだったから、なんとなくみんなそれらを恋人とするようになって、いつしか「え?クリスマスに恋人と過ごさないの??」みたいな感じになっちゃったんだよね。きっと。

 

「クリスマス」そのものでなくて「クリスマスに付随するもの」だけに目を向けてしまうのは、やっぱりキリスト教じゃない人が多いから、というか、「クリスマスに恋人と過ごす」という習慣を作ってる、またはそれに乗っかってる多数派の人たちがキリスト教じゃないから、なのでしょうね。

 

多分、お正月に恋人にお年玉あげる・もらうとか、恋人とふたりでおせち食べる、みたいな人ってそんなに多くはないよね。親戚を家に呼んだり、親戚の家を訪問したりする人が多いんじゃない?

でもそれは日本がそういう習慣だからであり、お正月に付随するものだけに目を向けているわけじゃないからであり。

日本のそういう習慣に染まっていない人ならば、日本におけるクリスマスと同じように、「正月だからとりあえずおせち食べよう、家族よりも恋人と会いたいから恋人と食べよう」→「え?正月に恋人と過ごさないの?ナウなヤングのくせにチョベリバ〜」みたいなことになるのかもしれない。

 

 

どうでもいいことですが、あたしは正直クリスマスはそんな好きじゃないです。

世の中の浮かれてる人がむかつくとかじゃなくて、クリスマスにケーキ屋で働いていた時に結構つらかった思い出があるからです。

 

ケーキ屋さんはすごいですよ。ケーキ屋と言う名の戦場、オーブンと言う名の戦車、ケーキという名の銃弾、店員という名の戦士です。心から尊敬します。あたしはもう、あんなところでは二度と働けませんです。

 

 

それでは〜