三々五々

日常の中で考えたこととか、自分の生活の中で体験して得たこととかを発信していきたいと思います。

「自分」と「家族」と「トイレの鍵」

前回の続きとして、ちょっと違う視点から。

 

「普通」って存在しないんだな~と感じたのは前回書いたとおりなんですが、面白いのは、この会話から(私含め)3人それぞれの「自分」と「家族」の関係性というか、家族との接し方、みたいなものが浮き出て見えるなーと思ったんです。

 

前回の内容をまとめてみると

 

エピソード:
バイト先の店で、オーナーと、アルバイトの男の子Mと3人で話していたところ、Mが「家でトイレに入るとき、扉を閉めない」という発言をした。それを聞いたオーナーも、「扉は閉めるけど、鍵は閉めないかも」と発言。そして二人はトイレの扉を閉める/鍵をかけるという行為を「みずくさい」と表現。例え家の中であってもトイレの扉は閉めるし鍵もかける派の私はびっくりたまげた。

 

この二人にとっては、どちらもトイレの鍵は「みずくさいもの」として扱われている。

じゃあ、この二人にとっての「トイレの鍵」とはなんなのか?どうして「みずくさい」のか?ってことを前回の二人の主張を振り返りつつ考えてみると。

 

オーナーの場合。

>「実家暮らしのときは、トイレが外にあったから、
 その時は鍵かけてたよ。知らない人に開けられたら困るし。
 でも、今はトイレが家の中にあるし、家の中には旦那しかいないから、
 鍵、かけなくても平気なんだよね。
 むしろ、家の中にいるのに鍵をかけるのは旦那に対してみずくさい」

 

→オーナーにとって、トイレの鍵の役割は「外にいる知らない人に扉を開けられないようにすること」。そもそもトイレが家の中にあれば、空けられたら困る「知らない人」が家の中にはいないという状態になるので、鍵は必要ない。
そして、「鍵をかける」という行為は二人暮らしの旦那さんを「知らない人」と同列の扱いをすることを意味し、それが「みずくさい」という発言に繋がるようだ。

 

そしてMの場合。

>「そもそも家族が誰もトイレの鍵をかけないし、扉も閉めない。
 見られても気にならないし、特に見ようともされないし。
 扉を閉めるほうが、閉ざされてる感があって、さみしい。」

 

→Mはトイレの扉を閉めることで「閉ざされてる感」を感じるらしい。Mの家族が皆扉を閉めない中で自分だけ扉を閉めることが、いわば「『家族』から『自分』を閉ざす」ことになり、それが(家族に対して)「みずくさい」という表現になる。また、Mの家族は誰も扉を閉めないことから、皆共通して『「家族」と「自分」を隔てたくない』という気持ちを潜在的に強く持っているように思える。

 

こうしてみると、二人の主張はどちらも「みずくさいから」と共通しているが、昔はトイレが外にあった実家暮らし・今は旦那さんと二人暮らしのオーナーと、両親・兄弟と同居のMとでは家族への思いやトイレの鍵の役割も違う。

が、共通するのは、「同じ家にいる家族にトイレ姿を見られても困らない」という点。二人とも、家族とは比較的オープンに接し、積極的に関わっていくタイプなのかなと想像がつく。

 

いっぽう、私がトイレに鍵をかける理由は「たとえ家族であっても、トイレに入っている姿を見られたくないから」。つまり私にとってのトイレの鍵の役割は「自分以外の誰にも自分を見られないための目隠し」と言える。

 

そしてそんな私は、なんとなく家の中にいても一人行動が多い。夕飯を敢えて家族と食べないこともあるし、私以外の皆がどこかへ出かける場合でも付いていかないことはよくある。そして私以外の家族もみんなそんな感じ。同じ家に住んでいてもみんな思い思いに個人行動をしている。

 

こんな書き方では誤解されそうだけど、決して家族仲は悪くない。家族旅行や遠出なんかも結構行く方だと思う。でも、それぞれがみんなあけっぴろげではなく、それなりに秘密を抱えたり、トイレに鍵をかけたりしながらも、うまくやっている。

 

そんな感じで。

こんな取るに足らない話題からも、同じ店で働くオーナーという人間と、Mという人間、そして私という人間が全く異なる生活環境や価値観を持った人間であることが分かったという話。

 

不思議だなぁ~と思いました。