自分のコトバでしゃべってよ!
知り合いの女性に一人、「この人、なんとなく苦手だなー」と感じる人がいます。
別に言葉遣いが荒いとか、自分の話ばっかりするとかいうわけでもない。むしろ話の内容とか言葉選びは面白くてこっちはよく笑わされるくらいなんだけど。
この人と二人で食事するとなると、どーにも気が重い。
とはいえめったに二人で会う機会のない人なのであまり気にしていなかったんだけど、先日久しぶりにその人と二人で食事をする機会があった。
そしてそのとき、その人を苦手と感じる理由がわかりました。
その人、話していると「やたらと写真を見せてくる」んです。
その写真っていうのは単純にスマホのカメラで撮った写真だったり、SNSにアップロードされた写真だったり色々なんだけれど、とにかく話しているとスマホの画面をこちらに向ける回数が多い。
んで、「やたらと写真を見せてくる」のに付随して、必然的に「やたらと『見せるための写真』を探す時間を挟んでくる」んです。1回1回はそこまで長くないんだけれども、なにしろその瞬間が「やたらと」やってくるので、そのたびに話が中断される。
地味〜なストレスが溜まるんですわね。これ。
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多分みなさんも身に覚えがあると思うんですけど、写真を見せられたときって、ほとんどの場合
「へぇー」
としか言いようがないんですよね。正直なところ。
人と話しているときに写真を見せるのがよくない、って話ではもちろんありません。
写真があったほうが話の内容がわかりやすいって場面ももちろんたくさんある。あくまでさっさとメインの話題に移るための前提情報とか、参考資料としてならね。
だけど、写真って、景色とか場面をそのまんまを写したものなんで、ある意味それで「完結」しちゃってる。だから「視覚的な情報の一端」としては非常に効果的なんだけど、それ自体をメインの話題にするのはけっこう難しい。
何がどうなってるかわかんないような不思議な写真とか、想像を絶するような場面を激写!みたいなスゴイものじゃない限り、写真はその場を『へぇー』で終わらせてしまう。
一種の「オチ」みたいなもんですよね。
例えば
「この前◯◯に行ったんだー!」
「そうなんだー!◯◯のどこに行ったの?」
「こことかー(写真を見せる)、こことかー(写真を見せる)、ここも超よかった!(写真を見せる)」
「わーいいねー行ってみたいなー」
「でしょー!あとこことかー(写真を見せる)、これとかー(写真を見せる)、こんなのもあってー(写真を見せる)」
「へぇーいいなー」
↑
こういう流れ、非常によくあると思うんですが、3枚以上になってくると正直「もうわかったわかった」ってなってきません??もうオチてるから!みたいな。
上のは極端な例かもしれませんが、こういう感じで話の中心を写真にされてしまうと、聞いている方としては1枚写真が増えるたびに喋ることがなくなってっちゃうんですよね。写真見りゃわかるから。
写真は「完結」しているものなので、それ1つでたくさんの情報を相手に与えることができます。でも、与えすぎてしまって、口で話す情報を奪ってしまう。既に最終回を迎えている作品に対して「◯◯はどうなるの?」「伏線はどう回収されるの?」っていう疑問を抱くことがなくなってしまうみたいに。
せっかく話をするならば、オチから話さずにちゃんと楽しみましょーよ、って思います。 探偵小説を読み始める前から犯人っぽい人物を次々教えられたら腹立つじゃんか。ね。
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たとえば道端であるかわいい猫をみかけたとします。
その猫のことを説明するのに、写真を見せて「この猫だった」と言うのと、言葉で「こういう猫だった」と説明するのとは、全然違います。
前者のような説明の仕方は「誰がやっても同じ」で、例え10人がこの方法を取っても10人が発する情報は(その猫の写真という)「全く同じもの」になります。
(写真の上手い下手で変わることがあるじゃん!というのはまた別の話)
それに対して後者は、10人がこの方法を取れば10通りの説明の仕方が生まれる。全く同じ説明をする人は多分いないでしょう。毛の色に言及する人もいれば、耳の形に言及する人もいるかもしれない。
つまり、自分のコトバで話すってことは、自分の個性が出るってことなんです。
会話やコトバはその人の個性であり、自分のコトバで話す機会を避けることは、自分の個性を消してしまうってことです。全部写真を見せて終わりにするっていうのは『没個性』そのものだし、それしかできない人ははっきり言ってつまんない人です。
だから声を大にして言いたい。
自分のコトバでしゃべってください!
あなたのコトバはあなたの個性です。
あなたの個性を見せてください。その方がきっとずっとおもしろいよ。
それでは