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三々五々

日常の中で考えたこととか、自分の生活の中で体験して得たこととかを発信していきたいと思います。

勉強する意味ってなんなのか、について

先日、通勤電車に乗っていたら、すぐ近くに乗っていた高校生がこんな話をしていた。

 

「私は勉強は全然必要じゃないと思うけれど、ある程度勉強しておかないと一般常識とかが身につかないから、やっぱりしなきゃいけないと思ったわけよ」

 

ここまでは、うんうん、という感じ。

 

「だけど、○○高校(その子の通う高校名:地元では比較的上位の進学校)に入れたから、一般常識が身につくくらいの勉強は十分したと思うんだよねー」

 

あちゃー。

わかるけどね。今思えばばかばかしいけれど、私も自分が高校生のときはそんなことを思っていたよ。

 

「なんで勉強しなきゃいけないのか」ってことを説明するのって、なかなか難しい。
特に高校生以下の学生に説明するのは難しい、と思う。大人になってからの勉強は、勉強する内容そのものに意味があるけれど、高校生までの勉強はそれだけじゃないから。

 

私も勉強嫌いな子どもだったけれど、やっぱり勉強は大事だと思うし、なぜ勉強をしなければならないか?に対する私なりの答えは一応用意している。


それは「高校生までの勉強は、勉強する内容そのものだけじゃなく「勉強するという行為」自体が大切だから。」

 

<理由その1>

高校生までの勉強は、基本的に回答が容易された問題を解くことになるけれど、それは「成功体験」の積み重ね。

社会人になると、回答が容易された問題なんかはまれで、大抵は自分が一番いいと思う答えを出し、正解だったのかどうかは自分で見極めなきゃいけない。「正解だ」と思ったとしても、それが本当に正解かどうかの答え合わせをすることもできない。

だから、「正解に近い回答を自分の力で導き出す」能力を身につけるための練習として、答え合わせができる環境で、あらかじめ「こういうときはこういう答えが正解」という成功体験を積み重ねておく必要がある。

例えるなら、逆上がりの練習をするのに横から手助けをしてもらって、逆上がりができたときのイメージを体験するのと同じね。


<理由その2>

「思考する」ことのトレーニングだから。

例えば高校で習う「微分積分」なんて、使わないじゃんって思うけれど、それは「微分積分」ができるようになることが目的というより、「微分積分」を解くときに自分の頭で考える工程を経ること、「微分積分」を解くときに使われる脳の部分を鍛えること、が目的。

「どうやったら答えを出すことができるかを考える」という行為そのものに意味があり、それによって「回答のない問題を解決する能力」を鍛えることができる。

これは…自動車教習と似ているのかな。自動車教習に通うのは、その道を車で通るときにどこでどれくらいハンドルをきる・どこでどれくらいの強さでブレーキを踏む…ってのを覚えるのが目的じゃなくて、こういう道を通りたいときはハンドルやブレーキやアクセルをどう駆使すればいいかってことを自分で考えることができるようトレーニングするのが目的。

 

……というのが私の考える「勉強する意味」なんだけれど、ちょっとむずかしいんだよね。これを子どもに説明して、わかってもらえるかどうかがちょっと怪しい。子どもに説明してわかってもらうにはどう言ったらいいんだろうか。

 

そもそも、自分の学生時代にも「大人になったら答えが出ない問題を解くんだぞ」ってさんざん言われたけど、子どもの頃って「答えが出ない問題を解く」という概念自体があんまり理解できてなかった気がする。すべての事象において正解の回答が存在すると信じていた。

それどころか勉強嫌いの私は「答えなんてもんがあるからその答えを出すために問題を解かなきゃいけない」と思っていた節があったから、「答えがないんなら答えを出す必要ないじゃん」と思っていた気がする。宿題をやらなかったら(問題を解かなかったら)、答え合わせのときにやってないことがばれて怒られるけど、答えがない=答え合わせをしない=やってなくてもばれない!、という具合に。幼い私の想像力なんてそんなものだった。

今思えばビックリするくらいあほだけれど、実際、子どもにとっては「問題」という言葉から連想するのは算数とか理科とかそういうやつばっかりで、大人にとっての「問題」とはイメージが剥離しすぎてるんじゃなかろうか。

とにかく。

私にとっては結果的に「答えが出ない問題を解けるようになるために勉強しろ」という理屈は納得のいくものではなかった。

 

まず、大人になったら「答えが出ない問題を解くスキル」以前に、「問題を自分で見つけるスキル」が求められるんだと思う。
だけど、「問題を自分で見つけれるようになるため」とだけ言ったら、幼い私のように「じゃあ問題なんか探さなければ答えだって出さなくていい」みたいになるから、「自分や自分の大事な人がすごく困っていて、どうしたらいいかわからないときに、どうすればそれを解決できるかを自分の頭で考えることができるようになる」くらいの言い方が落としどころかなー。

 

え?国語算数理科社会と「問題解決能力」なんて子どもの頭じゃ繋がらないだろうって?
う、うーん…そうか。

 

だったらもう早めに、「答えがない問題」の存在を教えておくほうがいいのかもしれない。
答えがない問題=難敵!と刷り込んで、すべてはその難敵を倒すための練習なのだと。

 

例えば小学校に入学した瞬間、「きみたちは本日から13年後(?)に姿かたちも弱点も不明なモンスターを毎日倒す生活になる!今日からいっぱい雑魚敵を出すから、じゃんじゃん倒して敵を倒すパターンを学べ!そうすればモンスターの弱点を見極め倒す方法を考える術を身につけることができるのだ!」とかって宣言する。

「えーそんなのやだー」ってなっちゃうかしら。

でも、「君たちは勇者なのだ!」とか言っておけば、「ドラゴンクエストみたい」って喜んだりするんじゃない?ドラクエやったことないけど。

 

…散々色々書いたのに、これが一番子どもにはわかりやすい気がしてきた。

 

それでは