死ぬのは全然、怖くないんだけど。
私は、死ぬことを嫌だとか、怖いとか思ったことがあんまりないです。
人前では「死ぬの怖いよー」とか言ってるかもしれないけど、実は全然怖くない。それは死ぬかもしれないような経験をしたことがないからかもしれないし、夫や子どもがいるわけじゃない身軽な状態だからかもしれない。
けれど、とにかく、怖くない。今「余命1ヶ月ですよ」みたいなことを言われてたとしても多分「へぇー、そっかぁ」って感じだと思う。
もちろん、重い病気やなんかで、文字どおり「死ぬほど」痛い思いをして過ごしながら本当に「死ぬ」時を待つのみ、みたいな状態はすごく嫌だけど、そこまで大した痛みとか苦しみとかを感じないまま、サクッと死ぬ日を迎えるっていうのは、全然怖くない。それが明日でも、別にいいよって感じ。
そのせいかわからないけど、自分が死んだときのことはよく想像する。死後の世界がどうなってるとかじゃなくて、自分が死んだらどうやって職場に連絡が行くのかとか、お母さんとか弟とかに私のパソコンのパスワード開けられたらやだなとか、そういうこと。
そういうリアルなことを考えてると余計に、自分が死ぬことってそんな大したことじゃないんじゃないかなって思えてくる。自分が死ぬことで悲しむ人がいるならば、その人たちに対して申し訳ないとは思うけど。
もしも今、家族や恋人が突然死ぬようなことがあったら、ものすごく悲しい。それこそ死んじゃうくらい、悲しいと思う。だけど、自分が今死ぬとなっても、そんな悲しくないし、むしろ、どうなるのかなって興味すら湧くことがある。
だからといって自殺なんかは考えたこともないし、考えたくもないけど。だって、痛そうだし苦しそうだから。
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多分、私は死ぬことを「卒業する」くらいの感覚で認識してるんだと思う。
学校に通っていた頃も、卒業することを怖いとか嫌だとか思ったことはなかったし、時期が来たらそりゃ卒業するもんだよねって感じだったし。
でも、思い返してみれば、周りの子たちの中には「卒業したくない」って言ってる子もいたし、卒業式で号泣してる子なんかはもっとめっちゃいっぱいいた。私はどうしてみんな泣くのか、全然わからなかったけど。卒業式なんて、これから新しい環境へ行けることへのわくわくくらいしか、感じなかったけどなぁ。
そう考えると、自殺は「自主退学」に似てるのかもしれない。私が自殺を嫌だと思うのは「自主退学」をしたくないのと似ている。それはもちろん、「死」と同じように自主退学を考えるような出来事を経験してないからかもしれないけど。
だって、自主退学は色々と面倒でしょ。何回も先生や事務の人と面談して、「考え直せ」とか色々言われたりするのを説得して、面倒な書類を書いたり、言い訳も考えなきゃいけない。
普通に通い続けることができれば「卒業」という形で自然と学校を去ることができるのに、わざわざ面倒な手続きを踏んでまで「退学」をするというのがすごく非効率的に感じる。「自殺」から受ける印象も、そんな感じ。
「自殺」は自然な死に方ではないので、ちゃんと死ねるように色々準備しなきゃいけない。必ず苦しい思いをするだろうし、もし上手く死ねなくてその現場を誰かに見つかったりしたら、エラいことになる。普通にしてれば死ぬのに、そこまでして、今、死ななきゃいけないのはなぜ?って思う。
学校の場合なら、普通に通い続けるってこと自体が難しい場合もあるから、自主退学もわかる。卒業に必要な単位が到底取れそうにないとか、経済的な理由とか子どもができたとか、実家を継がなきゃいけないみたいな理由で退学せざるを得ないケースはあるよね。「芸人になりたいから養成所へ行く」とか、「職人になりたいから弟子入りする」といって辞める子もいる。そういう場合はポジティブだ。
だけど、自殺に関しては「自殺せざるを得ないケース」って、思いつかない。普通に生きていくことが難しくなってしまうことはあるかもしれないけど、そこで「じゃあ、死ぬしかない」って考えていいものなのか。
それに、自殺はポジティブな理由にもなりえない。「おばけになりたいから自殺します」とか言って、応援してくれる人いないでしょ。おばけになったOBとか、いるかどうかもわかんないし。
最後ふざけたけど、「就職に失敗した」とか、「仕事がつらくて」みたいな理由での自殺はやっぱりよくない…と思う。どんな人でも最終的には死んでしまうんだけど、自分の手で自分の命を終わらせるのは駄目だと思う。
もうどうにもならなくて、このまま生きてくのも辛いというならば、どうか皆、「死」以外のところへ逃げてほしいな。実家でもいいし、実家から最も遠いところでもいいし。外国でもいい。
「死」はこっちから行かなくても待ってれば必ずやってくるのだから。
自殺とかのニュースを見ていると、いつもそんなことを考えます。
それでは
超楽ちんな薬の飲み方
2年くらい前に生活スタイルをガラっと変えたんですが、最近までしょっちゅう体調を崩してました。
ここ1年半くらいの間に風邪は3回か4回はひいたし、扁桃炎も2回か3回、膀胱炎2回、食中毒なんてのもあったし…いろいろ。
んで、もうほんと薬ばっかり飲んでいたら、自分の中でこれ超いい!って感じの薬の飲み方を体得したので共有します。
錠剤でも粉末でもこの方法だととっても飲みやすいです。
やり方は超簡単です。オブラートも使いません。
1.ふつうにコップ一杯の水と薬を用意する。
水はできれば冷えてるやつじゃなくて常温かぬるま湯くらいにしとくといいです。ゴクゴク飲んでもウワー冷たいッ!ってならない程度。
2.水を半分(か3分の1)くらい口に含みます。
コップの半分じゃなくて口に入る容量の半分くらいってことね。
3.水を口に含んだまま、薬を口の中に入れます。
薬を、口に含んでる水に浮かせる感じ。上を向きながらやると水がこぼれません。
4.更に水を口に含み、薬ごと一気に飲み込みます。
これだけ!
こうすると、錠剤も粉末も水に包まれているので舌や喉に張り付きにくいし、苦い粉末薬も舌に接触しないので味を感じないまま飲むことができます。カプセルなんかは水に浮くのでものによっては錠剤よりも飲みやすくなります!
ものすごく細かい粉末薬なんかも、口の中でダマになったりして飲みにくいですが、この方法だと口に含んだ水でひとかたまりになるのですごく飲みやすいです。
やってみてください。めっちゃおすすめ!
それじゃ
夢でよかった
最近立て続けに「ほんとーに夢でよかった!」という感じの悪夢を見ました。
おばけが追いかけてくるとかじゃなくて、もうちょっと現実的なやつ。
1つめ
駅弁を食べる気もないのに駅弁屋さんをぶらぶらしていたら、目の前にあった駅弁の発熱ユニット(っていうの?石灰と水でお弁当温めるやつ)の紐をどうしてもひっぱりたくなって、ひっぱってしまった。シマッタと思いつつ見つからないように棚に戻したつもりが、すぐ横にいた店員さんに見つかっていて、その店員さんに棚に戻した駅弁を無言で差し出され、死ぬほど恥ずかしくなりながら買い取った…という夢。
2つめ
友達とケーキが有名な喫茶店に行っていて、そこで食べたケーキについてSNSで『前来た時に食べたやつのほうがおいしかった』みたいなことをつぶやいたところ、どういうわけかその喫茶店に訴えられてしまい、そのSNSアカウントから私を特定しようとする警察(?)に追われつつびくびくしている夢。
1も2も、目が覚めたらもう本当に、本当ーに、夢でよかった、と思いました。
色々と考えたもの。衝動的にお店の商品を破損(使用?)して逃げようとするなんて、なんて私はクズなのか!!と本気で頭を抱えたし、なんであんなことつぶやいただけで訴えられちゃったんだろう、どうしよう、警察から逃げるには叔父さんちに行った方がいいんだろうか、とか。
ほんとリアルだった。リアルすぎて、目が覚めた瞬間、タイムスリップで過去に戻ってしでかしてしまったことのリセットが大成功した感じだった。癖になりそう。
1も2も考えなしにやってしまったことが大ごとになっちゃった、て感じの夢なので、軽はずみな行動は慎みなさいよという夢からの警告かもしれない。
このブログにも、あまり好き勝手書いてはいけないなぁと思いました。
いや、多分これからも書くけど…
それでは
痛みのない世界は生きやすいか?
自分のコトバでしゃべってよ!
知り合いの女性に一人、「この人、なんとなく苦手だなー」と感じる人がいます。
別に言葉遣いが荒いとか、自分の話ばっかりするとかいうわけでもない。むしろ話の内容とか言葉選びは面白くてこっちはよく笑わされるくらいなんだけど。
この人と二人で食事するとなると、どーにも気が重い。
とはいえめったに二人で会う機会のない人なのであまり気にしていなかったんだけど、先日久しぶりにその人と二人で食事をする機会があった。
そしてそのとき、その人を苦手と感じる理由がわかりました。
その人、話していると「やたらと写真を見せてくる」んです。
その写真っていうのは単純にスマホのカメラで撮った写真だったり、SNSにアップロードされた写真だったり色々なんだけれど、とにかく話しているとスマホの画面をこちらに向ける回数が多い。
んで、「やたらと写真を見せてくる」のに付随して、必然的に「やたらと『見せるための写真』を探す時間を挟んでくる」んです。1回1回はそこまで長くないんだけれども、なにしろその瞬間が「やたらと」やってくるので、そのたびに話が中断される。
地味〜なストレスが溜まるんですわね。これ。
ーーーー
多分みなさんも身に覚えがあると思うんですけど、写真を見せられたときって、ほとんどの場合
「へぇー」
としか言いようがないんですよね。正直なところ。
人と話しているときに写真を見せるのがよくない、って話ではもちろんありません。
写真があったほうが話の内容がわかりやすいって場面ももちろんたくさんある。あくまでさっさとメインの話題に移るための前提情報とか、参考資料としてならね。
だけど、写真って、景色とか場面をそのまんまを写したものなんで、ある意味それで「完結」しちゃってる。だから「視覚的な情報の一端」としては非常に効果的なんだけど、それ自体をメインの話題にするのはけっこう難しい。
何がどうなってるかわかんないような不思議な写真とか、想像を絶するような場面を激写!みたいなスゴイものじゃない限り、写真はその場を『へぇー』で終わらせてしまう。
一種の「オチ」みたいなもんですよね。
例えば
「この前◯◯に行ったんだー!」
「そうなんだー!◯◯のどこに行ったの?」
「こことかー(写真を見せる)、こことかー(写真を見せる)、ここも超よかった!(写真を見せる)」
「わーいいねー行ってみたいなー」
「でしょー!あとこことかー(写真を見せる)、これとかー(写真を見せる)、こんなのもあってー(写真を見せる)」
「へぇーいいなー」
↑
こういう流れ、非常によくあると思うんですが、3枚以上になってくると正直「もうわかったわかった」ってなってきません??もうオチてるから!みたいな。
上のは極端な例かもしれませんが、こういう感じで話の中心を写真にされてしまうと、聞いている方としては1枚写真が増えるたびに喋ることがなくなってっちゃうんですよね。写真見りゃわかるから。
写真は「完結」しているものなので、それ1つでたくさんの情報を相手に与えることができます。でも、与えすぎてしまって、口で話す情報を奪ってしまう。既に最終回を迎えている作品に対して「◯◯はどうなるの?」「伏線はどう回収されるの?」っていう疑問を抱くことがなくなってしまうみたいに。
せっかく話をするならば、オチから話さずにちゃんと楽しみましょーよ、って思います。 探偵小説を読み始める前から犯人っぽい人物を次々教えられたら腹立つじゃんか。ね。
ーーー
たとえば道端であるかわいい猫をみかけたとします。
その猫のことを説明するのに、写真を見せて「この猫だった」と言うのと、言葉で「こういう猫だった」と説明するのとは、全然違います。
前者のような説明の仕方は「誰がやっても同じ」で、例え10人がこの方法を取っても10人が発する情報は(その猫の写真という)「全く同じもの」になります。
(写真の上手い下手で変わることがあるじゃん!というのはまた別の話)
それに対して後者は、10人がこの方法を取れば10通りの説明の仕方が生まれる。全く同じ説明をする人は多分いないでしょう。毛の色に言及する人もいれば、耳の形に言及する人もいるかもしれない。
つまり、自分のコトバで話すってことは、自分の個性が出るってことなんです。
会話やコトバはその人の個性であり、自分のコトバで話す機会を避けることは、自分の個性を消してしまうってことです。全部写真を見せて終わりにするっていうのは『没個性』そのものだし、それしかできない人ははっきり言ってつまんない人です。
だから声を大にして言いたい。
自分のコトバでしゃべってください!
あなたのコトバはあなたの個性です。
あなたの個性を見せてください。その方がきっとずっとおもしろいよ。
それでは
私の担当課室の職員さんが、面白い。
私の仕事はいわゆる業務委託(アウトソーシング?)というやつで、今の勤務先へは私を含めた何人かの業務委託会社の社員でチームを組んで在席してます。
勤務先では一つの「課」につき1人か2人の業務委託社員のメンバーが割り振られていて、メンバーはそれぞれ自分の担当する課の職員さんから仕事をもらっています。
また、業務委託社員のメンバーの中には一人、実務を担当せずに業務委託社員と勤務先の職員との仲介をするリーダーがいます。この人が私の上司。
で、タイトルのとおり、私が担当として付いてる課室の職員さんが、面白い。
昨日、一週間ほど前に私の担当する課の課長から「今年からは業務委託の人たちも参加してほしい」と言われていた打合せがあったんです。
その打合せの参加メンバーは、勤務先職員側はその課長さんと、私に主に業務をくれる職員さん(面白い人)と、もう一人別の課内の職員さんの3名。
そしてチーム側は私と、私の後輩、私の上司の3名。
打合せ時間は昼の15時から17時まで。
打合せ内容は、面白い人が課長さんともう一人の職員さんへ上半期の業務報告をして、下半期〜次年度に向けてみんなで改善案を話し合うって感じの軽いもの。
私たちの役割は、面白い人の業務報告のフォロー(面白い人が管理している業務を実際に担当しているのは私と後輩なので)。
で、昨日の午前10時。
打合せ用のメモも作り終えてまったりしていると、面白い人が
「じゃあ、やりましょうか」
といって、隣の談話室へ入っていく。
私たち「???」
打合せ、15時からじゃないの?
不思議に思いつつもついていくと、部屋には私たちチーム側の三人と、面白い人しかいない。そして何やら資料を配ってくれる。
なるほど、「打合せ前打合せ」というやつらしい。
この打合せに業務委託のメンバーが参加することは初めてなので、どんな感じなのかリハさせてくれるのね。そうなのね。
面白い人が(本番の)打合せで報告する予定の内容を話してくれて、私たちは配ってもらった資料にメモを取りつつ、(本番の)打合せに備える。
私は私で適宜、フォローを入れるべき箇所とかを考えたり相談したりする。
20分程度で「じゃ、こんな感じで本番もよろしくお願いします」という具合に、打合せ前打合せが終了。
談話室を去り際に
「あ、今配ったその資料、本番までにもう一回更新するんで、
持ってこなくていいですよ」
と言い放つ面白い人。
…コレ使わないんかーい!メモとったのに!
まぁ、大したメモではないのでそれはよかったんだけど。
時が流れ14:55。面白い人が本番の会議室へ鍵を開けに立ち、さぁそろそろ私たちも移動かなという時。
業務委託のメンバーが全員見れるメーリングリストに1件メールがきていたので、コレだけ見てから移動しようと開いてみると、差出人は今しがた席を立っていったはずの面白い人。
受信時刻は14:54になっている。
はて?
何かと思って覗いてみると。
「業務委託社員様
以下の業務をお願いします。
◯◯◯(業務の内容)
急ぎなので今日の17時までによろしく」
…いやいやいや。
打合せ、今から17時までですよね?
貴方の業務を担当してる私と後輩、どちらも参加メンバーですよ!誰がやるの??
顔を上げると、正面に座っているリーダーのポカーン顔と目が合う。ですよね。
幸い業務自体は難しいものではなかったので、仕方なく担当外のメンバーに頼んで打合せへ。
打合せはリハ通りスムーズに終わり、立ち去ろうとする面白い人をリーダーが呼び止める。
「さっきのメールのことなんですが、この課室の委託メンバーは二人ともこの打合せに出る予定と聞いていたんですが、業務の締め切りが17時というのは、二人のうちどちらか残って作業をしたほうがよかったってことなんでしょうか。」と聞いてみると。
「あ、ごめんあれね、時間を間違えて打っちゃったんだ。
打合せ始まるからまぁいいやと思ってそのまま送っちゃった。」
脱力。リーダーも脱力。課長大笑い。
間違いだったなら口頭でいいから言ってよ!
そして、おつかれ〜と言いながら颯爽と立ち去る面白い人。
……結局正しい締め切り時間はいつだったんだ!?
もう色々と通り越して、癒やされました。
隠れ癒やし担当なのかもしれない。面白いなあ。
それでは
結婚式、全然したくないです。
私の周りは今、結婚ラッシュの真っ只中。
最近はFacebookなんかで昔の同級生の結婚報告を聞いたり、結婚式の様子を撮影したフォトアルバムを見かけることがよくある。
知ってる人の結婚報告はいつ聞いても自分のことのように喜ばしいし、結婚式の写真なんかは何日もニヤニヤできるくらい見るのが好きなんだけれど、ふと、自分が結婚式を挙げたいと思ったことが一度もないことに気付いた。
友達の話を聞いていると、「自分の結婚式には絶対これをやりたい、あれをやりたい」という話も出てくるけれど、「自分が結婚式を挙げる際にやりたいこと」なんて考えたこともないし、今考えてみても全然わからない。
むしろ、「結婚式、挙げるの?」って感じになってしまう。
それがどうしてなのか、自分でも不思議なんだけれど。「結婚」自体をしたくないってことはないので、多分「結婚式」そのものに何か自分が拒否反応を起こしてしまうような要素があるんだと思う。
多分、その一つに「結婚する自分が主役」ってことがある。
世の中に、企画者と主役が同一のイベントってあんまりないんじゃなかろうか。
歓送迎会の幹事が退職者や新入社員ってことはないだろうし、誕生日パーティを誕生日の人が自分で企画するケースもきっと少ないと思う。
でも、結婚式は結婚した二人が企画して、結婚した二人が主役のイベント。
それがどうも「自分の誕生日パーティを自分で企画する人」みたいに感じる。
結婚式って、親戚や周りの人に「この人と結婚しました、今まで育ててくれたお父さんお母さん、支えてくれたみなさん、ほんとにありがとう、これからもよろしく」ってことを伝えるためのイベントですよね。
「内祝い」の豪勢バージョンのような。
「内祝い」というと、例えば成人したときなんかに「皆さんの支えのおかげで無事20歳を迎えることができました。感謝します」って感じでお赤飯くばったりするよね。
だから結婚式も性質的にはそれと同じとすると「皆さんの支えのおかげで結婚できました。感謝します」って感じでお礼を振る舞って終わりでいいのに、そこでわざわざみんなに遠くから時間作って電車乗り継いで来てもらう、しかも難しいドレスコードに沿って色々考えて安くない衣装代をかけておしゃれして、ご祝儀まで持ってきてもらって!!というところに、多分違和感があるんだと思う。
参加者に結構小さくないストレスをかけますよね、結婚式って。
とはいえ、自分は親しい友達に結婚式に呼んでもらえるのはとても嬉しいし、衣装を考えたりするのも楽しかったりするので、「自分が嫌だから」ってわけでもないんです。
ただ、自分に関しては「わざわざ自分を祝うために、手間と時間とお金をかけてみんなに集まってもらう」ってことにすごく申し訳なさを感じるんですよねー。
あと、「儀式」みたいなものが苦手っていうのもあるかもしれない。
「あれってなんのためにやるの?」と聞いて、「意味はないよ、儀式みたいなものだよ」とか「伝統だからね」とか答えられると、うわー勘弁してーって感じになってしまう。
だから、大きな声では言えないけど、「夫婦初めての共同作業です!」とかも「だからなんやねん」と思っちゃう。
これから死ぬほど共同作業いっぱいするのに今わざわざケーキを一緒に切っとく意味ある?とか。
ひねくれ者なんでしょうねぇ。
でも、ここまで結婚式をけなしておいておかしいけれど、もし自分が結婚したときに、結婚式をしなかったらしなかったで、多分後悔すると思うんですよね。
今のうちに、色々と耐性とか気持ちの整理とかを、つけておいたほうがいいのかもしれない。
(取らぬ狸のなんとやら…)
それでは